ニーチェについての断章

philosophy
2010.11.24

人間の本質的非対称性について、ヘラクレイトスの徒であるニーチェは考える。同じものはなにひとつない。ゆえに似ている、似ていないと言葉を弄することも、究極的には詮なきことだ。なにひとつ交換可能なものはなく、またなにひとつ対称的でない。世界はその根底において、本質的に、決定的に、宿命的に、非対称である。

たとえば過去は、現在と似たなにかに思える。ならば未来もまた、現在と似たなにかだろう。だが、時間のどの瞬間も、かけがえがない。つまり交換不可能ななにものかである。たとえば過去と現在は、お互いの共存を許さぬほど致命的に、非対称である。

ニーチェは考える。われわれは、「高さ」の観念を必要としている。たとえば「高貴」さ。たとえば「崇高」さ。より高くなろうとする意志と、より高いものに打ちのめされようとする意志と。すなわち非対称の意志を。ニーチェには、貴族主義がある。

美しい女にむらがる醜い男どもをみるがいい。年老いた教師にむらがる若い学生たちをみるがいい。ものを売りに来る商人にむらがるもの持たぬ民をみるがいい。われわれは似ているから結びついているのではない。根本的に非対称であるがゆえに、結びついている。おたがいに足りないものを求めて彼らは結びついている。それを「交換」と呼ぶのはあまりに観念的だ。真に交換であるかどうかなど、誰にもわからない。商品交換においてでさえ、結局は、持てる者はますます富み、持たざる者はますます失うではないか。交換というべきではない、われわれはむしろそれを、麗しき協同と呼ぼうではないか。

非対称とは、誤解を恐れずにいえば「個性」である。あるいは「かけがえのなさ」である。交換不可能性である。個性が、人間という名のもとに解消されてしまうものならば(つまり個々人の差異よりも人間の概念のほうが大きい)、人間をさえ超え出ようとする、かけがえのなさである。

思えば人間の歴史は、超越を生み出そうとする意志によって貫かれてきた。たとえば運命を自在に作り出す神々(神話)。たとえば運命を超克する英雄(物語)。たとえば運命に巧みに寄り添う帝王(歴史)。近代は、それを必要としなくなるのだろうか。人類の名のもとに、すべての差異が解消される。それは結構なことだ。だが、たとえば男にとって女とは何だろう?

ニーチェは考える。当然、マルクスに代表される社会主義を、つまり平等を志向する哲学のことを知っている。また同時に、「人類」を頂点とする進化論も知っている。近代以降、神が死に、王が途絶え、人類が人類に優越するものをもたなくなれば、その非対称性は消滅する。

だが、そうはいっても、ニーチェには、近代がとても不十分なものにみえた。神を殺害し、おかげで進化の頂点に君臨した人類は、そうはいいながら、神のかわりに法や国家を、奴隷制のかわりに資本制を推戴している。非対称性を隠蔽する数々の装置を張り巡らせながら、同時に、潜在的な非対称性を本源的に蓄積している。

非対称性を隠蔽する装置はますます巧妙になり、ひとびとのあいだの非対称性を吸収する国家や社会はますます強力になっていく。自由な等価交換の名のもとに、貧しい者はさらに貧しくなり、平等を謳う社会主義の名のもとに、すべての人間が奴隷となる。

かりそめの非対称をもたらすために持ち出したカントの「超越論」が、ニーチェには我慢ならなかった。それは非対称を隠蔽することしか教えない。

近代に超越は必要ないのか。もっと正確にいえば、超越的身体を必要としないのか。人類はいとも簡単に超越を諦め、超越論でだましだましやっていくつもりなのか(人類の平等の名のもとに、ひとはファシストを、独裁者を渇望するのではないのか)。

奴隷の哲学。万人が等しく主体であるためには、すべての差異を回収する装置が必要だ。すなわち国家が、社会が、独裁が……。国家、社会、独裁は対称性を実現する。すべては等しい。しかしそれらの統治の外側には、非対称性がひしめきあっている。この非対称性を隠ぺいし続けることは可能だろうか。可能ではなかろう。

超越が必要というなら、われわれはそれをいかに実現すべきなのか。かつては神がいて、王がいて、そして貴族がいた。奴隷がいて、家畜がいた。われわれは、われわれのそばに、つねにおのれを越える者を有し、またおのれに劣る者を有していた。神が死に、王が息絶えた近代において、優位や劣位はいかにして実現さるべきなのか。

ふたたび神を崇めることによってか。王を戴くことによってか。あるいは奴隷を、あるいは家畜を所有することによってか。自らを弱者と認めることによってか。それとも他者を見下すことによってか。

ニーチェは根本的に問題を変えようと思った。人間は、非対称を必要としている。超越論や、等価交換や、社会主義のように、人間の対称性を前提するのはおかしい。すべての人間は異なる。人間とは、交換不能の非対称の螺旋の結果である。

超越「論」が、実際には超越者などいない、すべては等しい、という意味にとれるとしたら、ニーチェはそれを逆転させる。超越の意志をもて、と。その結果が等しいのか、それとも差異をもつのかは重要ではない。

高さの観念なしには、右手はいつまでも右手のまま、左手を知ることはなかろう。右手と左手が対称性を得るのは、それを判断する高さの観念によってこそである。持てる者と持たざる者のやりとりを交換とみなせるのは、そのやりとりを超越する高さによってこそである。

神が死んだ今、もはや古い高さの観念に頼ることはできない。人類を越える存在を、われわれは持たなくなった。われわれは、なにを高さとして受け容れるべきなのか。

誰もが超越の意志を失うならどうか。ひとは根こそぎ衰弱する。衰弱の意志をもつ。こうして対称性は実現する。あらゆるものが対称的である、とは、虚無であろう。すべては等しいとすべては空しい、は同じであろう。あらゆる概念が根拠を喪失する。

われわれは、過去に後戻りできない。過去の非対称に羨望の眼差しをおくっても、われわれはそれを取り戻すことはできない。この非対称は、未来に実現しなければならない。神なしに、王なしに、奴隷なしに、家畜なしに、非対称性を実現する道がひとつある。すなわち、この均質化を進めることだ。

すべてが雑多となり、同じことだが均質化し、さらに同じことだが空虚となっていく。すべてが同じである、つまりすべては空しい。しかしそれは、かえって差異が極限に達することだ。

すべてが等しく、またかつすべてが空しい世界とは、たった一滴の水滴が加わるだけで、決定的な変化がもたらされる寸前の世界であることを意味する。すべてが等しく空しい。この世界にあらわれたもっとも小さな超越の意志は、おのれを概念にまで高めざるをえない。それほどに、ただ一滴の水滴は異質である。

すべてが雑多であり、すべてが均質であり、すべてが等しく、ゆえにすべては空しい。すべてのものを飲み込む沈黙の海、この世界においてただ一滴の水滴であることは、世界を一変させるほどに、美しい。灰色の世界のなかに、雪の純白よりも白い白を、空の青よりももっと深い青を描くに十分である。概念が始まるのだ。

超人とは、いわば、沈黙の海を振り切った、ひとりの子供である。ただ「あ」と声を発するだけの、ひとりの子供。われわれは、超人の親にはなれると、ニーチェは言った。《そのとき》には、徹頭徹尾人間を指し示すだけの「われわれ」の主語は、もはや必要がなくなっているだろうから。

精神にまで至らぬ肉体のもっとも深いところで、ニーチェを響かせる……。

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