パーン・ホ・メガス・テトウネーケ

philosophy
2009.08.30

ひとが作り出したもっとも古い観念のひとつに《神》がある。《神》は実在するのか、しないのか。それとも、《実在》という語がそぐわない、ある種の超越それ自体を指すのか。実在や経験、あるいは精神や観念、そしてそれらすべての超越者としての《神》、実在を存在に取って代える《神》、ときに《自然》と呼ばれもするその《神》の姿を、ひとはさまざまな形で思い描いてきた。

デカルトにせよ、スピノザにせよ、パスカルにせよ、キルケゴールにせよ、彼らはさまざまな形で《神》と語らい、対話者を極限まで希薄化することによって、神の存在を証明している。そのことは後の時代からみれば、超越者としての《神》の否定にかえって肉薄するようにみえる。今日では、宗教という語の意味同様に受け容れ難いものとなったはずの神にまつわる彼らの思考は、しかし、彼らの思考全体の拒絶にはつながらない。政治から宗教を切り離したはずの近代の人々は、それゆえに神についての思考を括弧に入れることにあまりにも慣れている。

しかし、彼らの思考は、神の否定ではない。やはり肯定に属する。神を否定したのは、おそらくはカントである。それも、人間の側に限界を設けることによって、そうしたのである。もし、彼に示唆されて、神が存在する《かのように》思いなすことが、神の存在を意味するのだと考えたとすれば、それはむしろ神の不在に等しいことを指摘しておかなければならない。神はいないと語ることも、神がいる《かのように》考えることも、率直に言って同じことだ。それらのあいだに違いはない。《実践的には》、いずれも、神の不在を指し示している。

フォイエルバッハは、もはや不在となった神を、ひとびとの心のなかに、作り出そうとした(逆にいうと、神に見離され、疎外されたわれわれの精神のうちに、神を取り戻そうとした)。だが、それは、あらかじめ仕込まれたカントのプログラム――傷ではなくつねに痕跡としてしか現れないカントのプログラムを実行しているにすぎない。いやむしろ神は、つねにそうして復活と死を反復してきた。わたしからすれば、このprocursusという名の(悪)循環こそが、宗教の別の名である。神を盲目的に信仰することは、かえって神を不在にする。盲目的な恋が、崇め奉られた当の女性の不在を意味するように。そしてこの不在のゆえに、宗教は無敵の思考なき思考となる。というのも、《もともと、神は通常の実在ではないと考えられた》からだ。

祭壇のうえには、《なにもない》。宗教とは、神の不在を意味すると同時に、それを覆い隠すことである。繰り返すが、神はいないと語ることも、神はいる《かのように》考えることも、同じことだ。そしてまた、神を盲目的に信仰することも同じことなのである。表現は違えど、そしてプロセスは違えど、三つとも同じ結果しか生まない。そして一見してそうみえるのとは反対に、《神はいる》と語ることだけが、異なる結果をもたらす。それは、盲目的な狂信の手を離れるためには、おそらくよほどましな一手なのだ。《神はいる!》と断定したデカルト達の思考に一辺の曇りもないことが、そのことを証明している。したがって、神にまつわる彼らの思考を括弧に入れる必要などどこにもない。彼らの言葉は、厳密には次のように読まれるべきだ。《神はいる、ただし、お前ではない!》 肯定するという行為が、ひとつの哲学であるためには、どのようなものにもせよ、神の存在が必要なのである(1)

だが、われわれは俊足のニーチェの徒である。彼は、一九世紀の終わりに、きわめて奇妙な問題をうち立てて過ぎた。神は存在するのでもなく、不在なのでもない。《死んだ》のだ、と。それは、宗教を信じることとも異なるし、信じないこととも異なる。神の不在を声高に語るわけでもなく、神を精神のうちに復活させようとするのでもない。むしろ、神が《歴史上の》実在であったことを示しているという点ではカント主義者とは真逆の意見であり、神の実在を証明したデカルトやパスカルたちにより近い意見である。したがって、彼の言葉は厳密にはこうなるだろう、《神はいる、ただし、もう死んでしまった!》(2) そして、その死が示すもっとも重要なことは、腐臭を放つゾシマ長老の遺体のように、《神》が肉体をもっていたことである。

ニーチェの問いは、神がいるのか、いないのか、などというところには向けられていない。そうではなく、神亡きこの世にあって、ひとは何を超えようとしているのか、という点に向けられている。ひとはおそらく、いつも超越者を必要としてきた。神であろうと、王であろうと、自然であろうと、ひとを超えたものを構想することなしに、ひとの生はありえない。エンペドクレスがそうしたように、次々に目標を乗り越え、靴の底で踏みしだいてゆくこと、それがひとの生だからだ。だが、神は死んだ。神が死んだということ、それは、われわれが精神の産物だと考えていたそれが、肉体を持っていたことを意味する。つまり、われわれが足下に踏みしだいたのは、空虚を意味する古い精神だったのではなく、肉だったのである。ならば、神亡きこの世界にあって、次なる目標もまた、肉体を持っていなければならない。むしろ近代のほうが、そのことを強く要請する。それゆえに、それはどうしても、《超越論》などという言葉遊びではすまされない。そうした言葉遊びは、結局は後戻りすることしか教えない。実際には肉をもった《神》を、再びヴェールで覆い隠すだけのことなのだ(この結果、言葉は肉を隠すヴェールの働きしかしなくなってしまう)。われわれは肯定を必要としている。無限の否定だけで生きていくことはできない。死ぬことさえできない。「大いなる神は死せり」。神が死んだいま、われわれは、いかにして肯定を実現すべきなのか。百の精神よりも、一の肉が必ず勝利する。肉体をもった、新しい超越者が要請されている。

かくして、われわれには、二つの選択肢がある。ひとつは、超人である。そしてもうひとつは、ファシズムの戴く空虚な第一人者である。そしてもどかしいことに、この分岐において、ひとはどうしても後者を選んでしまう。自己による自己の内在的な乗り越えではなく、外在的な他に自己を結びつけるだけで満足してしまうのだ。このとき、カント主義は後戻りして宗教に立ち返ることしか教えないし、あるいは後者を選ばずして選んでいることを隠蔽することしかしない。なぜなら、彼らの吐く言葉はすべて肉を覆うヴェールだからだ。中世の闇とは、まさに、この肉を覆うヴェールの別の名であり、それが宗教だった。カント主義者は、それを言葉に代える。

肉に曝された近代人は、つねに、超人とファシズムの分岐の前にいる(両者はともに民主主義といわれることがある)。歴史上のファシズムのあとで、それは超人と宗教の分岐に変わったのかもしれない。ポストモダンをもたらす唯一の思考、唯一の分岐の前で、ひとは相も変わらず近代に立ち戻る後者だけを選び続けているのである。ともあれ、超人とは、おおいなる謎である。ニーチェは、アポロンの神託さながらに、超人についてなにも包み隠さなかったが、なにも語らなかった。ただ、徴だけを与えたのである(徴は、シンボルではなく、ある種のエンブレムと解すべきだ)。すくなくともいえることは、われわれの精神は、肉である、ということだけである。おそらく、すべてはここから始まるのだろう。

【註】

  • (1) クルト・ゲーデルの不完全性定理は内在的な証明=肯定の不可能を証明した。そのことは、肯定の思考に超越者が必要なことを意味する。
  • (2) ドゥルーズは、神の死を語ったのはフォイエルバッハであり、ニーチェはそう語るだけでは十分ではないと言った、と指摘している。この指摘は間違いではないが、正確とはいえない。ニーチェの表現に忠実にいうなら、神の死を指摘したのはやはりニーチェである。フォイエルバッハはその不在を指摘したにすぎない。そしてニーチェのいう死の意味するところを、人口に膾炙された意味を超えて問うべきなのである。

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