生の速度、あるいは色彩についての覚書

fragment
2009.11.15

ニーチェはいう。

すなわち貧弱な心理学者であり人間通。…徹頭徹尾の独断論者であるが、この傾向に重苦しく倦怠し、ついにはそれを圧制しようとねがったものの、懐疑にもただちに疲れてしまう。いまだ世界市民的趣味や古代の美の息吹きをうけたことがない……遅延せしめ媒介する者ではあるが、なんら独創的なものではない…カントは、すぐれて遅延せしめる者である。

ニーチェ「権力への意志」

遅延せしめる者、カント。ここに、さらにニーチェのすぐれた分類を用いるとすれば、《カント》とは、ディオニュソス的な光速の空間に生じたアポロンであろう。限界を付与するひと、カントのおかげで、われわれは右手と左手を区別すると同時に、その対称性を知る(カントは、超越を実現する神のことを、きわめて経済学的な呼び名――すなわちただ《限界》と呼んだ)。われわれは、かの『純粋理性批判』のページを、右手でめくっても、左手でめくってもかまわない。ただし、その手がどちらなのかを認識しているのならば。

死は、あまりにも高速に過ぎ去る。そのためひとは、死を《認識》することができない。だが、ひとが死を認識できないのであれば、生もまた知らないはずだろう。死を知らずして、われわれは、いかにして《生》にたどりつけるというのか。カントは、死を彼方へと送り込み、死を生の防波堤とすることで、生にひとときの憩いの場を与えた。しかし、その停滞のまどろみのおかげで、生は次のものに偽装されてしまった――すなわち、《存在》である。純粋悟性の行なう《認識》は、ひとの生を、《存在》という形でしか捉えることができない。純粋悟性は、ディオニュソスのもたらす非対称の畸形に、西欧的趣味にかなった対称性、《現象―認識》を与える。神を窒息させるかわりに、ひとの死を神に明け渡す《物自体》という思考法は、過ぎ去っていく死を光の彼方――すなわち永久(とこしえ)の闇の国へと亡命させる。かくして生は回復された――かにみえた。しかし、そこにあったのは、生ならぬ質量であり、要するに、《存在》であった。

しかし、わたしは疑う。すべては光なのではないか。そしてまた、すべては闇なのではないか、と。死があまりに高速に過ぎ去るからといって、それを光の彼方に送り込むのは早計だろう。また、生が死に対してあまりに遅いからといって、それを静止に近しい《痕跡》と捉えるのも拙速だろう。たしかに、《認識》は、痕跡と結びついて離れない。だからといって、痕跡が速度を持たないと考えるのはあまりにも迂闊だろう。

カントの作りあげた世界は、彼の『判断力批判』が働いているかぎりにおいて、激流のなかに立つ古い城塞である。コンスタンティノープルの三重の城壁さながらに、激流のなかで――つまり時代の変遷に対応するために、何度も弥縫を講じられて立つ奇怪な古い城塞である。わたしは、彼の書物の順序をひっくり返すかぎりにおいて、その価値を認める。ただし、その城塞が、彼の最後の批判によって、いつかは消え去る運命にあることを知っているのならば(よくいわれるように、彼の二つの批判は、第三批判によって包囲されている)。あるいは、こう言ってもいい。往々にして、激流のなかで消え去る古い秩序にかわって、「新しいカントへの回帰」が唱えられる。だが、この激流は――すなわち遊牧民たちは、そもそもはじめから、古くて新しいカントの秩序に狙いを定めていたのではなかったか。

光と闇とを分かち、そこに城壁ならぬ境界線を引くカントの価値は、境界線そのものを色彩で埋めてしまうニーチェなしには、語ることができない。ゲーテのなかのスピノザがカントに色彩を与え、ニーチェの色彩はモノクロームの存在を生に変える。ニーチェの磨き上げたディオニュソス的空間とは、虚無(ニヒリズム)のそれではなく、真空のそれである。さまざまな速度を実現する多様体としての、真空の場所、すなわち極彩色の神、ディオニュソス。生と死の境界があるとしても、それは速度の違いがそう見せるだけであって、重要なことは、そのあいだの境界線よりも、その境界線を押し広げる差異である。さまざまな速度が、線分に色彩を与えていく。この空間のなかでは、静止したカントでさえ、アポロンの呼び名とともに速度を付与される。

ひとはいつも、生に速度を、そして死に永遠を付与してきた。ひとは死に永遠を見いだす。そして消え去るこの世に虚無を思い、そしてすべてが虚無であると知るだろう。だがここに、二重の誤解がある。死は永遠ではない。むしろ飛び退る光である。死はひとつの場所にとどまっていない。ひとが認識できないほどに、素早い。そして、死の速さを知っているひとだけが、生もまた速度であることを知る。ヘーゲルは言っていた。「感覚的対象の実在性についての例の真理と確信を主張する人々に対しては、次のように言っても差し支えあるまい。そういう人々は智恵の最下級学校に、つまりケレスとバッカスのエレウシスの密儀に送りかえさるべきであり、パンを食べ葡萄酒を飲むという秘密をまず習うべきである」と。そのとおりである、ただし、それは「最下級学校」どころではない。それこそが、最高級の智恵の密儀なのである。

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