文体について――蛇とQ・E・D(ラフ)

philosophy
2010.05.06

小林秀雄は、かつて「どんなに正確な論理的表現も、厳密に言へば畢竟文体の問題に過ぎない」(『Xへの手紙』)と語り、文学の本質を文体に求めていた。当然、芸術の本質は「フォーム(姿)」(「美を求める心」)にあると考えられた。文体とは、もちろん言語芸術のまとう「姿」を意味する。

ところで、「意味する」とは、どういう状況を指して言われるのか。「意味する」は、主語と述語、ここでは「文体」と「姿」の共通性を指摘する語である。したがって、こう言い換えることは自然である。すなわち、《文体と姿とは似ている》。

スピノザは言っている。

定理三 相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない。
証明 もしそれらの物が相互に共通点を有しないなら、それはまた(公理五により)相互に他から認識されることができない、したがって(公理四により)その一が他の原因たることができない。Q・E・D・

スピノザ『エチカ』(上)、畠中尚志訳、岩波文庫

ここで言及されている公理四、および五は以下の通りである。「四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む」、「五 たがいに共通点を持たないものはまたたがいに他から認識されることができない。すなわち一方の概念は他方の概念を含まない」。したがって、「意味する」という語を「似ている」という語に置き換えることは正当性をもつように思われる。というのも、似ている、という語は、一方に原因を、そして他方に結果をもつことが確実だからである。スピノザは定理一で「実体は本性上その変状に先立つ」とも言っていたが、「意味する」あるいは「似ている」という語には、一方から他方への「変状」をも認めることができるだろう。小林は「言葉の姿と言つても、眼に見える活字の恰好ではない。諸君の心に直かに映ずる姿です」(「美を求める心」)と言った。にもかかわらず、「意味する」という言葉は表面から表面への移行、あるいは変状を意味するものであることに、小林は同意するだろう。

しかし、「意味する」という語が語と語の変状ではなく屈折や格納として機能するなら、この話は極端に異なった様相を呈する。屈折も格納も、ここでは同じように機能する。すなわち、述語が主語の内部に隠されてしまい、「似ている」という観点は維持できなくなる。述語はここでは隠れており、表象をもたない。述語が内面に隠されている以上、表面から表面への移行という観点は取りようがなく(模倣論はとれない)、異なる二つの語がつくる構造が問題となる。ここでは、主語は述語によって暗黙かつ適度に限界づけられており(それでも、というよりはそれゆえに「解釈」の余地は残されているが)、一方が他方の概念を含むというよりは、一方は他方によって否定されている。つまり「似ている」というよりは「偽」という観点が必要となる。

芸術家にとって、「似せる(模倣する)」ということと「偽物をつくる(虚構を作る)」ということは、日本語の音が示すとおり同じ実践を指している。だが、その他のひとびとにとって、とりわけ学問にかかわる人間には、両者は峻烈に対立していると考えられるだろう。というのも、一方にはリアリティが、他方には虚構性が賭けられているからである。とくにベンヤミンの指摘するような複製技術の時代には、《同じ物を作ることが可能である》という偽の同意が受け容れられている以上、両者の差異は大きくなろう。

スピノザの定理三およびその証明を疑うことは簡単である。たとえば現実のスピノザに対して「スピノザ」と呼びかけたときのことを想起すればよい。現実のスピノザは「スピノザ」という呼びかけに対する原因を含んでいるだろうか。スピノザと「スピノザ」は相互に共通点を有しているのだろうか。そうではない、たんにスピノザと呼ばれうるユダヤ人が、「スピノザ」という名前に同意したというにすぎず、べつに彼はデカルトともマルクスとも呼ばれてもよかったはずである。あるいはスピノザという人物が二人いて、その二人がまったく共通点をもたなかったとしても、二人ともが振り返る可能性をもつだろう。つまり、スピノザと「スピノザ」の関係はあくまで偶然であって、そこに原因から結果へと至る必然性を見つけ出すのはむずかしい。スピノザと「スピノザ」は結びついていない。そこにあるのは「認識」というよりは暗黙の同意である。だからどうしてもスピノザと「スピノザ」を結びつけるラングのような別の媒介項や入れ子構造を想定したくなる。現実と結びついていない「スピノザ」は真ではない、偽であり虚構である。……かくして、因果律は、特殊な契約によって成立するものとなる。すなわち、「わたしが『スピノザ』であること」に同意を与えるもうひとりの私が可能にするものである。「スピノザ」とスピノザ、そしてもうひとりの名指されざるわたし、あるいはX。

しかし、にもかかわらずスピノザは決然とこう述べる。「これが証明されるべきことであったQuod Erat Demonstrandum」。換言すれば、“これ以上この問いにかかわる必要はない、スピノザとは「スピノザ」の原因である、あるいは「スピノザ」はスピノザを意味する、さあ、次へ行こう”、というわけだ。超越論的統覚Xを破砕するかにみえるこの不思議な言明は、いったいなにを意味しているのだろうか。あるいは、なんの比喩なのだろうか。

同じことを、ニーチェは次のように表現している。

そしてまことに、そこに見いだしたのは、いまだかつてわたしが見たことのないものだった。一人の若い牧人、それがのたうち、あえぎ、痙攣し、顔をひきつらせているのを、わたしは見た。その口からは黒い蛇が重たげに垂れている。
これほど吐気と蒼白の恐怖とが一つの顔に現われているのを、わたしはかつて見たことがなかった。かれはおそらく眠っていたのだろう。そこへ蛇が来て、かれの喉に這いこみ――しっかりとそこに噛みついたのだ。
わたしの手はその蛇をつかんで引いた――また引いた。――むだだった。わたしの手は蛇を喉から引きずり出すことができなかった。と、わたしのなかから絶叫がほとばしった。「噛め、噛め。
蛇の頭を噛み切れ。噛め!」――そうわたしのなかからほとばしる絶叫があった。わたしの恐怖、憎しみ、吐気、憐憫、わたしの善心、悪心の一切が、一つの絶叫となって、わたしのなかからほとばしった。――
君たち、敢為な探求者、探検者よ、またおよそ狡猾な帆をあげて恐ろしい海に乗り出したことのある者たちよ。君たち、謎を喜びとする者たちよ。
さあ、わたしがそのとき見たものは何の比喩か。いつの日か来るに相違ないこの者は何びとなのか。
このように蛇に喉を犯された牧人はだれなのか。このように最も重いもの、最も黒いものの一切が喉に這いこむであろう人間はだれなのか。

『ツァラトゥストゥラ』手塚富雄訳、中公文庫

牧人に噛みついていた蛇は、牧人の精神である。重く黒いこの精神は、こう考えている、「ほんとうは、わたしは『牧人』などではない」……。ただただXとして振る舞うもうひとりの名指されざるわたしがいる。呼びかけのなかでいつもそれを拒絶しているもうひとりの暗いわたしがいる。それはわたしが隠しもっている「意味」である。だが、ニーチェはその蛇を「噛み切れ」という、あるいはスピノザは謎めいた言葉でいう、「Q.E.D.」と。……

小林秀雄は言っている。

美しいと思ふことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝へます。文学の姿は、心が感じます。だから、姿とは、さういふ意味合ひの言葉で、ただ普通に言ふ物の形とか、恰好とかいふことではない。あの人は、姿のいい人だ、とか、様子のいい人だとか言ひますが、それは、ただ、その人の姿勢が正しいとか、恰好のいい体附をしてゐるとかいふ意味ではないでせう。その人の優しい心や、人柄も含めて、姿がいいといふのでせう。絵や音楽や詩の姿とは、さういふ意味の姿です。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語つてゐるのです。

「美を求める心」1957年

若い頃、Xへの絶縁状を書いた小林は、戦後に至り、「心」こそが「姿」(=フォーム)だと言っている。つまり、ニーチェの言う「蛇」とはちがう、フォームとしての心、すなわち表面としての心があることを指摘している。肉体も精神も、あるいは言葉も意味も、すべてが表面上のドラマである。もはや問題は表面=表現にしかない。とはいえ、なにを表現するべきなのか、という問いもよくない。この問いは重い精神を呼び寄せ、表現の層をレトリックのレベルに偽装してしまう。われわれは、結局、ひとつしか目的をもたない。だから、問題は、なにを表現すべきか、という問いが招くレトリックの水準を離れて《いかに表現するか》、ただそれだけなのである。言葉の「姿」、すなわち文体。逆に言えば、「蛇」としての精神を噛み切ったときにはじめて、われわれは自身の文体に出会う。したがって、文体は、よけいなものを削り取ったときに現われるものであり、希少なものである。たとえば超人。あるいは、Q.E.D.

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