二つの時間概念――純粋な現在とはなにか

philosophy
2010.07.21

ochino-miko

社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められようと願う社会の劣悪を認めるなら、それこそ己の試みが無意味なものになるからである。

かくして社会は己の才能が足りないと考えている連中で埋め尽くされてゆく。だが、社会は無謬ではありえない。それは歴史が証明している。悪いのは本当に自分なのか。若者たちよ、こういう古い「社会主義」とはおさらばして、次のように考えてみよう――われわれは社会を認めていない。問題は、われわれが、社会を認めるかどうかだ。社会が己を認めるかどうかという発想は誤りなのだ。いま社会に参画している連中を支え尻拭いさせられるのは将来の若者だということを忘れてはならない。

もちろん、こうした解決法も万全ではない。この選択はひとに狂気の誹りと孤独とに耐えることを強いるからである。社会の外にいる孤独に耐えるのは容易なことではない。また、「社会」を否定しても、社交的な態度までは失ってはいけない。孤独を愛する勇気が、ひととの「社交」を受け容れる勇気を排除するのであってはならない。いずれにしても、社会の側が劣悪だとすればそちらはよくある集団的狂気だが、結局、どちらの狂気を選ぶのかという問いになる。

黄金時代はとうの昔に終わっていた。われわれはずっと残照を黄金と取り違えてきた。だが、いまや多くのひとたちが、それが残照に過ぎなかったことを知りつつある。なのにわれわれときたら、目前に迫る闇を恐れて残照にすがる選択肢以外思い浮かばない。

孤独を恐れてか、それとも社会を「脱構築」しようとしてか、若者たちはいう。わたしにあなた方の尻拭いをさせてください、あなた方が逃げ切るお手伝いをさせてください。大人たちはいう。いやいや、それには及ばない、われわれのやっている失敗に手を貸してくれるだけでかまわない……。かつての「脱構築」のよき意図は、失敗に失敗を重ねる《なし崩し》にとってかわる。とある哲学者――ジャック・デリダは言っていた。過去に汚染されていない純粋な「現在」などない、それは西欧形而上学の悪しき伝統であると。

すでに大人たちによって汚染された現在を若者たちは受け容れねばならない。若者たちは、ほとんど泣き寝入りに近い形で、甘んじてそれを受け容れている。かつて大人たちが、そのまた大人たちの汚染を受け容れたように(しかし本当は、上の上の世代は上の世代にできるかぎりの白紙を残そうとしたのだ――ただ、わたしの願いは戦火なしに第一世代を実現することである)。この哲学はこう言っているかのようだ、西欧形而上学の伝統を破壊するために、この汚染を受け容れてくれ、と。

しかし、ニーチェは言っていた。ひとはみな「第一世代」になるべきだ、と。第一世代とは、振り返ることをやめ、纏わりつく過去を振り払い「現在」を生きるひとたちである。歴史ではなく、汚れなき白紙に地図を書く世代である。ニーチェがそれを言う以上、簡単ではないが、可能である。過去に汚染されていない「現在」は、強い意志があれば、生じうる。かの哲学者は、ニーチェを褒めそやしながら、彼と逆のことを言っている。第一世代など存在しないということが、「起源」であり、「起源」を超える/「起源」なき「起源」だと、そう言っているのだ。いったい、どれだけ失敗を繰り返せば、自分たちこそ第一世代の人間と自覚する若者たちの時代が来るのだろうか。

世代について考えることは、時間について考えることである。デリダの哲学はほとんど正しい。「起源」は、多くの場合に虚偽であり権力を可能にする神話である。にもかかわらず、ニーチェのような「第一世代」への意志、要するに起源や根源の自覚が必要な場合がある。

起源を求める欲望が、かえって起源という思考の欺瞞、起源など理念にすぎないという認識をもたらすのはよくある「深い」話である。だが、欲望が認識を突き抜けて、自らを起源とみなす、もっとも「浅い」意志にまで成長することがある。ひとたび認識が意志にまで成長すると、現在が過去に汚染されているという思考法は、現在を生きるわれわれが、過去に責任を押し付ける怠慢にしか見えなくなる。

「理論」の根底が異なる二つの時間概念があるようだ。そしてデリダの哲学は、これら二つの時間概念の「ごちゃ混ぜ」である。実際、管見に触れたかぎり、古今東西、「理論」のタイプは二つしかなかった。声と文字である。理論とは、ロゴス=言葉である。ひとは現実にこの二つの言葉を駆使して思考しており、これらの技術がもつ欲望にしたがって、思考は無意識のうちに規定されている。両者は、それぞれ異なる形でおたがいを欲望し、必要としている――声は文字のように現在に定着し続けることを欲望し、文字は声のように流れて消える現在(つまり過去)を欲望している。その意志に応じて、二つの時間概念が生じる。

なんらかの媒体に定着することで時間に抵抗し、たえず現在を占め続ける文字は、そのつど過去を隠しながら存在する。文字は過去を露わにしながら隠している。隠しそして露わにする過去と現在の共犯関係は、実際には文字の自作自演である。真の現在は、むしろ文字が取りこぼしたものであり、この取りこぼされたものが、真の過去を形成する。つまり本当に隠ぺいしているのは真の過去だが、文字は、本当はこの消え去る現在としての真の過去を欲望しているのである。この過去を、文字は「取りこぼす」あるいは「隠ぺいする」という形でしか、もっといえば「痕跡」の形でしか表現できない。したがって、文字は、起源に永久にたどりつけないにもかかわらず、起源を追い求めるほかない、そうしたやるせない技術なのである。真の過去にはどのみちたどり着けないのだから、ここでの「知」のあり方は、もっぱら〈黄昏どきの診断〉となる。こうした技術は、理念=欲望を統整的なものとしてみせるが、統整的理念は、別の言い方で、《歴史》と呼ばれることがある。文字なしに歴史を思考することは困難だが、そもそも歴史的思考法それ自体が、文字に影響されている。文字と歴史は、同時に発生したのだ。

この理論の上では、デリダの議論は正当性をもつ。というより、この理論的根底にもとづくなら、デリダ以上の解は存在しない。文字こそが歴史の起源なのであり、突き詰めて言えば、文字痕跡より先に歴史的起源は存在しないのである。ただし、そこから先の深度に差はあれ、この地点に到達しているとみなしてよい哲学はほかにもいくつかある。カントやフロイト、柄谷行人などがそれである。

しかし、もっと別種の哲学がある。それが声の哲学である。声は、時間軸上のある一点しか占めることができず、現在と呼ばれる瞬間は原理的にほとんど訪れない。過去に汚染された現在という言い方はできない。現在がつねに流れ去っている以上、むしろ現在を定着させようとする努力の方が推奨される。声はもともと消え去るものであり、消え去る現在、すなわち過去にはほとんど価値がない。声は、もっぱら現在を欲望し、自身が過去になってしまわないよう、現在を追い越すことすら欲望している。つまり、次の現在がどのように流れるかを、あらかじめ予測しておかなければならない。そうでないと、声は容易に足元を掬われ過去に流されてしまう。ここでの知のあり方は、〈朝の予言〉である。ニーチェの言葉でいえば、「午前の哲学」である。文字の哲学において、それが欲望する流れ去った《現在》は、もはやたどりつけない統整的理念だが、声の哲学において、それが欲望する《現在》は、まれにたどりつくことはできるが、その次の瞬間に別のものに変わる、という類のものである。

要するに、声の哲学は、激流に耐え忍ぶ欄干のような努力を必要としている。ひとの努力の結果が文字として結晶したわけだが、結晶した瞬間に、別の時間概念、つまり文字の時間概念が発生する。声の時間概念は消失する。

声の哲学そのものは、文字を遠ざけておらず、むしろ文字を欲望している。その一方で、文字の哲学は、声を〈たどりつけない〉理念として欲望している。したがって、結果的に、両者の混在は、文字の哲学に有利に働く。だが、それにもかかわらず、声の哲学はかならず文字の哲学を凌駕する。なぜか。

じつは、文字の時間がたえず現在を見せ続けると言ったとしても、実際には、文字が定着する媒体の消滅速度にしたがって、ゆっくりと過去に流れ去っている。つまり、文字のみせる現在は「観念」である。石板に刻まれた文字は、ひとの死を越えて残るがゆえに永遠を夢想させるが、当然、石板そのものは風化を免れえない。紙であろうがレコード盤であろうが燃えればそれで終わりである。そして実際、ローマの王政時代の歴史がそうであるように、歴史は、なによりこの燃焼によって、とりわけ戦火によって、たえず失われてきたのである。歴史を忘却の底に沈めてきたのは、なによりひとが味方につけたはずの炎である。そして現実にどうやって歴史が残されてきたのかといえば、媒体の不滅性ではなく、写本によってである。今日目にする聖書も古事記も写本であって、マスターは存在しない。「歴史を語り継ぐ」という言葉は比喩ではないのだ。いずれにしても、文字の哲学は、実際には、声の哲学によって内包されており、文字のみせる永遠はいかにも「観念」である。というか、文字の哲学それ自体が、現在を「観念化」する。両者は、一般に、自然(声)と文化(文字)の差異としてなじみ深いものであり、要は自然のほうが優位にある、ということである。

ここにきて、はじめて、声と文字とを区別する必要がなくなる。というのも、文字は声と対立するのではなく、声の遅延であることがわかるからである。文字は、声とは別の速度をもった、一種の声なのだ。

イェルムスレウの言理学の不思議な主張の正しさは、ここではっきりする。ソシュールは文字を声の補助物にすぎないといって自身の言語学から排除し、声を優先的に取り扱ったが、師ソシュールの教えの結論部分に従うなら、かえって文字も声と同様に取り扱うべきなのである。声帯をあつかう器械音声学があるのなら、ペンや筆をあつかう器械書字学があってもよいのだ。デリダのようにソシュールを反転して文字の優位を主張するのはやりすぎであり、跨ぐべきでない理論的根底を不当に横断することになってしまう。声と文字を反転させるためには、それらが対立しているという観点が不可欠だが、文字もまたいずれ消え去る以上、両者の対立は結局維持できないし、そもそも、消える、消えない、という対立自体が、「人間」の寿命を前提した偽の対立だからである。消え去る宿命をもった声の哲学はもとより万能ではありえないが、声の劣位と文字の優位を語ることは、声のもつよき意図をも抹消してしまう。たとえば、自分の話すのを聞く、という円環は、自分の書いたものを読む、という形で起こっているのであり、こうした現前の共同体から文字だけが逃れているなどということはありえない(わたしに言わせれば、自分が話すのを聞く、というこの問題はむしろ記憶痕跡の問題であって、音声中心主義ではなく、内なるエクリチュール中心主義の問題であると思う)。

声の優位が明らかである以上、むしろわれわれは、究極的には純粋な現在というものを意志せねばならないということである。だが、本質的に声の世界を生きているわれわれには、たえず過ぎ去る現在に身を任せているだけでは、現在――「今」はついに訪れない。

途上で、文字に助けを借りるさまざまな迂回、激流をなだめる遅延が必要ではあるかもしれない。しかし、そのことが、声の哲学を忘れさせることであってはならない。写真に残しておけばよい、紙に書いておけばよい、現在を定着させるのは簡単なことだ、という思考は、声の哲学を忘れて文字の哲学に、つまり観念に逃避しているだけである。

純粋な現在への意志、すなわちわれわれこそ「第一世代」であるという気概、要するに「今」、それは、エクリチュールの魔法を振り切ったときに、かならず現われる。わたしはそのことを確信している。ひとは、「今」を渇望しなければならないし、またそのようにしか生きられないのである。

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