神に肉を与える―パーン・ホ・メガス・テトウネーケII

philosophy
2009.09.02

パウロの弟子ディオニュシオス・アレオパギタ、あるいはネオ・プラトニズムを信奉する人たちによって、神は肯定の世界から取り除かれ、否定の祭壇へと祭り上げられた。《神はいない》。存在の影としての神。この影が世界を覆い尽くしたとき、中世は始まる。己さえ知らない男、知覚を超えた男、そうであるがゆえに否定的言辞によってしか表現されえない男、そうした思考の実りなき結実としての《神》。

盲目的な信仰は神を不在にする。神はいないと語ることは当然として、神がいるかのように思いなすことも、盲目的な信仰も、すべてが神の不在に収束していく。そしてそれこそが、まさに肉体なき神の証なのだ。不在こそが、神の存在を証明する? 簡単なことだ。存在という語の意味を変えればよい。存在は、たかだか自然主義でしかないような実在とは異なる。nemo(none)であり、nihil(nothing)でもあるもの、それが場としての存在、すなわち神である。

宗教は、神から肉体を奪い去ることによって始まる。腐敗する肉が、神のものであるはずがない。神とは、「肉でないもの」としか表現しようのないものであり、肉の残余として玉座に君臨する精神、それが神である。なにもなき場所としての、ニヒルな祭壇、神の場所であると同時に、神そのもの。

ところで、他の民族にもましてギリシア人が興味深い点は、肉を欲し、肉体を持った者として神を描いたことである。全能のゼウスに精神ならぬ骨を、人間に肉を与える契約を結ばせたプロメテウスの神話が語っているのは、神が肉を欲するものとして描写されたということである。またイリアスにおいて、交戦中、アルゴスの将ディオメデスがアフロディテの腕を切りつけるシーンが描写されている。不思議なことに、神は、われわれと同じ肉体をもっている。

肉を欲するにもかかわらず、精神の代わりに骨を捧げられる神、槍に切りつけられる肉体をもった神。そして、地球上のありとあらゆる民族のなかで、ギリシア人だけが、聖典をもたず、文学をもった。それは、次のことを意味しているように思われる。宗教が、神から肉体を奪うことによって始まるのだとするなら、《文学は、神に肉体を与えることによって始まる》、と。

神を肯定するということ、そのことは、神に肉を与えることを意味する。いったい、肉とはなにか。時とともに腐臭を放つ肉、それが、物質の定義であるとするなら、肉とは、変容の謂いである。たとえば、さまざまに形を変える貨幣の流通は、それが物質であることを意味する。したがって、この変容の流れを遮り貨幣を退蔵することは、貨幣から肉を奪うことである。マルクスはこれをフェティシズムと呼んだ。ものから肉を奪うフェティシズムは、われわれがよく知っているように、別種の宗教である。物質や感情のはたらきを証明するのと同じ力強さで神を証明しようとしたデカルトやスピノザたちが開いた重い中世の扉を、資本主義は、半分だけ、閉ざすかのようだ。知の扉を開き、そして半分だけ閉ざすヘーゲルの思考が近代そのものを意味するのだとすれば、資本主義とヘーゲルとは、われわれが思っている以上にもっと親密なのだ。カントはどうか。彼の彫琢した物自体の概念、あるいは扉に鍵をかける者としてのカントは、むしろ、宗教に近づいているようにみえる。

だが、わたしは宗教よりも文学を愛する。わたしの知っている文学者は、神を肯定する。あるいは、神に肉を与える者、それこそが文学者である。あの足速きニーチェが「大いなる神は死せり」と語るのはこの地点である。肉なしに死を語ることができないように、死は、生の否定ではない。死もまた、生の肯定である。いったい、われわれは、いかなる肉を、いかなる超越を思考すべきなのか。それこそ、《文学》の取りくんできた、そして取りくむべき問いである。

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