反脱構築――新しい芸術哲学のための前哨戦

philosophy
2010.08.06

koya-san

ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。20世紀後半から今日に至るまで、これらの概念(デリダは、この「概念」という言葉に抹消線を付す)のアカデミズムの領域での世界的流布は、目を見張るものがある。わたしがこの概念に懐疑的なことは、多くの読者がご存知だろう。だが、かつてはわたしもこの概念に刺激を受けた人間のひとりだった。この概念ならざる概念について、ここでわたしなりに決着をつけておくことにする。

音声を通じたコミュニケーションは自己同一的で直接的かつ純粋なものである、という音声中心主義を、デリダが批判したことはよく知られている。「自分が話すのを聞く」という円環は、きわめて自己同一的にみえるが、実際には、「話す自分」と「聞く自分」とのずれが生じている。これを、彼は差延と呼ぶ。

話す自分と聞く自分がつくる円環は、一種の自己相互作用である。音声は、周囲の空間を巻き込みながら、自分に帰ってくる。音声は周囲の空間を同一化しながら再帰する、といってもいい。発された声と自身が受け取った声とのあいだには相互作用、すなわち差延が生じている。周囲の空間を通過する過程で、音声は変化を被らざるをえない。にもかかわらず、この差延をひとは黙殺し、忘却する。黙殺し忘却することで、閉じた共同体が形成され、この暗黙の同意のもとで「概念」が成立する。つまり強引に各々の自己同一性が成立しているとみなす。近代がひとに要請する自己同一性とは、こうした差延を黙殺せよという命令にほかならない。

差延を自覚するのは容易ではない。だが、意識のなかにわずかにあるにちがいない記憶痕跡は、かつて話し、そして聞いたということを教えてくれるはずである。痕跡――つまりエクリチュールに、彼は可能性を見いだす。

そこでデリダの戦略は、次のようなものになる。あえて空間(テクストといってもいい)の内部に切り込み、いたるところに痕跡を見出し、エクリチュールをまき散らし(散種)、話す主体とそれが所属する空間のあいだに相互作用を起こさせ、差延を押し広げる。このようにして、脱構築は遂行される。

このデリダの戦略が、善良な意図で貫かれているのはあきらかである。しかしおそらく、この戦略を本気で実践しようとしたひとは、この世に存在しない。実践できないからである。その理由を以下に述べる。

差延になんらかの積極的な可能性を認めてみよう。そうすると、この概念は、とにかく自己および周囲の空間になんらかの現実的な作用を及ぼすのでなければならない。したがって、その力を認めなければならない。しかし、この相互作用の力を認めると、逆説的にこの概念は破綻する。厳密に考えると、この力は瞬間的に無限大に達するからである。自分の声が周囲の空間を変化させるとしよう。その変化を受けた声が自身に作用することで、自分もまた変化する。その変化はさらに声に影響し、その変化を受けた声がさらに周囲の空間を変化させる。その変化がさらに自分に再帰し……。

「自分が話すのを聞く」という円環を、社会に拡大してみよう。当然、ここでも差延は無限大になる。ある個人が社会に参入することで、自分は変化するが、社会も変化する。その社会の変化をさらに自分が被り、その自分の変化をさらに社会も被る。こうして差延の力は一瞬にして無限大に達し、バーストする。デリダが発見した自己再帰的な概念である差延は、原理的にいって、どう考えても無限大に達する。いくらわずかな差異とはいえ、それは次の瞬間には無限大に陥ってしまうのである。意図的に散種するかどうかとは無関係に、この概念は、発散してしまう。

しかし、そんなことはありえない。〈世界は有限だからである〉。実際、自己や社会がバーストするようなことは起こっていない以上、この差延の力は黙殺されるか忘却されているのだが、どのみち黙殺/忘却せざるをえないのである。わたしからすれば、この無限大を黙殺しているのは、ほかならぬデリダ自身である。彼は適当なところで差延を飼いならしている。

社会が個人を参入させても、その結果得られるはずの差延による変化は、生じた瞬間にどこかにアブソーブされている。自覚するか、しないかとは別に、日々、厖大な量の差延が発生しているにもかかわらず、なにも起こっていない。起こる気配もない。おそらく、どこかで、差延の無限大を吸収する装置が働いている。

「自分が話すのを聞く」という円環は一度しか発生しないのではない。文章、語、音節にいたるまで、すべてを自分の耳が聴き続ける。そしてそのつど、この相互作用は蓄積されてますます巨大なものになっていく(実際、マジックメモよろしく、デリダは痕跡は消えないと言っていた)。ここで発生する差延を物理的に吸収しているのは、有限の身体、すなわち耳である。無限を有限が吸収できるわけがない。にもかかわらず、身体がバーストするようなことがないとすると、この思考法自体のどこかに誤りがある。

差延それ自体を全否定すべきだろうか? おそらくそうすべきでないだろう。差延が発生しているのは確実である。「自分が話すのを聞く」ということは、どう考えても起こっている。ということは、ここで発生してしまうはずの無限大の力を、有限の社会や耳が吸収している、ということなのだろうか。有限は無限を吸収できると考えるべきなのだろうか。

さて、もう一度もとに戻って考えてみよう。差延がもたらす無限にひとはどうやって対処しているのか。それは「黙殺」あるいは「忘却」することによってである。この黙殺や忘却に積極的な意味を認めてみよう。つまり実践としての黙殺や忘却がある、と考えてみよう。ところで、無限を吸収するためには、やはり無限の器が必要である。したがって、有限の器(耳)が吸収する、ということはありえない。もっとも合理的なのは、無限の力を生み出した力自身に無限を吸収させることである。

どこに無限があるか。それは精神、自意識である。ひとは、自意識(主体/実体substance)と空間(場所/形式form)とのあいだで発生している無限の差延を、自意識に再吸収させることで、キャンセル(ゼロに)している、と考えられる。これを、実践的な言い方で、「黙殺」する、あるいは「忘却」する、という。差延の運動とは、もともと自意識内部の葛藤にすぎない。したがって、差延は「黙殺」するか「忘却」するのが正しい。実践的にはそれしかできない。デリダが望むような脱構築は、原理的に発生しない。

ひとは、この無限の差延を、意識に捨てているのである。話すことによって生じるのが意識だとすれば、おそらく、自分の話を聞く際に生じているのが無意識であろう。デリダが推奨するように、本当に意識の差延を自覚しようとするひとがいるとしたら(つまり、無意識に捨てた差延を再び拾いなおすようなことをしたら)、ただちに差延は無限の弧を描いて彼を分裂病に至らしめるだろう。つまり、バーストしてしまう。この無限の力を侮ってはならない。それはおそらく死に至る病である。

顎と耳との距離が、「自分が話すのを聞く」というデリダの概念の有限な前提である。有限の身体によって、この差延は保証されている。しかし、デリダのいう概念としての差延はそういうものではない。顎で発生し、耳から抜けていく有限の差延は、テクストや共同体とはなんの関係もない。その一方で、無限の差延は、無限の自意識が再吸収して、本来はゼロになっている。

有限の声には有限の耳が対応し、無限の自意識は無限の自意識(のなかの無意識に相当する部分)が再吸収する。したがって有限の差延以外は発生していない。デリダの誤りは、有限の差延を無限の自意識と関係づけてしまったことである。この非対称を彼は可能性だと思ってしまった。また有限の差延を、無限の自意識が不当に黙殺していると勘違いしてしまった。しかし、無限を維持したまま有限の世界を往還することはできない。無限は、有限の世界では自動的にキャンセルされる。結局のところ、差延は、自覚しようがしまいが、自意識から自意識へ、自意識内部の葛藤以上のものではない。

付け加えておけば、おそらく主体とは、厳密には、差延の発生装置にして吸収装置である。というか、差延がはたらいているあいだ、ひとは自らを主体であると感じている。しかし、実践の段階では、主体もろとも、差延は消滅する。救いを求める声のなかに、差延は存在しない(救いを求めるひとに、自分の話す声をいちいち聞いている暇などない)。

デリダの望むのとは逆に、差延の運動とは、《実践》とは真逆の、内面化のそれである。この運動の脅威は、個人であろうと社会であろうと、「主体」を形成し、かつ内面化し、そして縮小し崩壊する、そういう過程に自らを導くことである。いわば社会的分裂病の症候を示す。われわれは、差延の運動の外に出なければならない。

たとえば中上健次の文学の中心に位置すると考えられてきた「路地」は、デリダの脱構築にきわめて似通っている。しかし、この概念は、外部なき若者の奇怪な葛藤にすぎない。この路地(=無限の世界)を捨て岬(=有限の世界)に出ることによって、彼の小説は純文学の領域に到達する、とわたしは考える。

さらに抽象的な話になるが、ここで問題になるのは、「場」あるいは「空間」とはなにか、ということである(上記の問題はミンコフスキーがいうような空間把握Raumerfassen/空間体験Raumerlebnisの問題につながっている)。形式といってもいいし、形態といってもいい。ともかくその「場」を占める実体(実質/主体)とのあいだの相互作用を考慮に入れようとすると、どうしても無限が発生(発散)してしまう。実体は、ここでは「点」だからである。

点である以上、その場における位置を正確に測ろうとしても、その正確さを競えば競うほど、点は無限に遠ざかってしまう。その場を占める点は、場から無限に遠ざかっている、というおかしなことになってしまう。場あるいは形が有限な――すなわち具体的な「もの」であるのに対して、点は抽象的だからである。

場(形)は具体的なものである。したがってこれはひとまず取り除けない。そこで「点」という思考法を回避することが求められる。「点」をいかに具体的なものとして思考するか。さらにいえば、場とその場を埋める主体、という思考法そのものをいかに回避するか。

場は、社会に置き換えることができる。当然、社会を取り除くことはできない。したがって、社会を占めるアトムとしての個人、という概念を取り除かねばならない。そして結局、社会と個人、という思考法そのものが、問題ということになる。この一対には、合理的な解が存在しない。

ヘーゲルが取り組んだのは、ある意味ではこの問題の解決である。ひとはいかにして社会のなかで個人となるか。彼はこれを弁証法という概念でごまかした――要するに、差延とその吸収という自意識内部のはたらきそれ自体を、現実の歴史とみなす精神主義的解決に逃げ込んでしまった(彼は一度外へ出ているのにまた内側に戻ってしまっている)。とはいえ、デリダと好一対をなすのはジョージ・ハーバート・ミードのような社会心理学であろう。自我と他我のあいだの自己相互作用のはてに自己同一性を獲得するという、やや楽観主義的な議論は、自己相互作用が同一性を破綻させるというデリダの議論のちょうど逆になっているが、やはり、自己相互作用の力を甘く見積もりすぎている。現実的には、ミードの想定するような自己同一化のプロセスは発生しない。場(社会)を前提とする個人は「点」だが、現実には、点は場と接点をもたないからである。

カントは、場(形態/時空間)を重視し、時空間をアプリオリとしてもつ有限の感性に依拠する科学の可能性を認めたひとである。だがその一方に無限を事とする理性を保存したため、無限と有限を区別する悟性の責任が極端に重くなった。彼は、いわば「点」を超越論的理念として受け入れようとしたが、点は場と究極的に接点をもたないし、結果としてその乖離を埋めるために、「考えることだけができる」物自体を設定せざるを得なくなる。いうなれば、神を殺しておきながら、その骸が揮発する寸前で宙づりにしてしまったのである。だが、原理的にいって、悟性に頼らずとも、無限を維持したまま有限の世界に渡ることはできない。したがって、必要なのは、本来、もっと別の問題構成だったはずである。すなわち、ひとの精神はいかにして、自身が生み出す無限を振り切りつつ、有限の実践世界を旅するのか。

さて、芸術家は、徹底して、自己を表現しようとするひとである。この単純な思考法が、なにゆえラディカルでありうるのか。たとえば同世代のナポレオンとヘーゲルとベートーヴェンがいる。なにゆえ、この音楽家は彼らのうちでもっともラディカルに見えるのか。

芸術家は、社会(現代的な言い方をすると大衆)との相互作用という考え方を遠ざける。そしてむしろ社会を突きぬけて自然を見ようとする。ニュートンと戦ったゲーテや耳の聞こえないベートーヴェンは、それをもっともわかりやすく表現していたひとたちである。

ベートーヴェンは、デリダの言う「自分が話すのを聞く」ことができなかった。つまり、自分の声が周囲の空間を巻き込みながら耳に帰ってくる、という考えをもたなかった。徹底して、顎の振動としての自分の声を聞いていた。

なにゆえ、自己を表現する、というこの単純な思考法が、これほど困難であり、またなおかつラディカルなのか。それは、結局、無限を回避すること、自意識の葛藤を振り切ること、万人がうちに飼っている“デリダ”を捨て去ることを教えるからである。

われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ。このゼロに達した時に、そしてそこから更に新しく出発した時に、はじめてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げて行く。

大正期のアナーキスト、大杉栄の言葉である。大杉のこの言葉は、自意識内部の意識と無意識とのぶつかりあいの結果、自意識そのものがキャンセルされることを教える。つまり、行為のための真空、ゼロこそ、精神の理想的な在り方であることを教える。

ニーチェの「噛み切れ!」もまた、ここで響いている。デリダの円環を断ち切ること。そうしてはじめて、ひとは、いかに表現するか、という唯一の問題を手にするのである。

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