哲学者と芸術家II――カントとドゥルーズの場合

philosophy
2008.09.24

ニーチェというひとりの人物が成長し、文献学者から哲学者へと変貌する姿は、ぼくたちを感動させる。そこには、なにひとつ無駄なものはない。そうした成長の物語――ひとりの独身ドイツ人の伝記作品を、ニーチェの生涯に見ることは、もちろん可能だ。それは、可能というよりは、むしろ推奨される。バーゼル周辺にいた若い彼には、まだまだアカデミックなところがある。言い換えれば、現象と物自体の対立を信じるカント的なところがあり、それが抜けきっていない。アポロンが、じつはディオニュソスのもうひとつの仮面にすぎないことを、そしてディオニュソスでさえ仮面であることを、まだ知らないのだ。だが、彼は、そのはじまりから、すでに《悲劇》を発見していた。『悲劇の誕生』である。

《悲劇》とは、言葉が現実に機能する、その特別なあり方のことだ。ぼくたちは、プラトンやソクラテスのこと、あるいは紫式部や空海のことを、テクストによってしか知らない。だから、彼らの存在を、現実にではなく、テクストの中に解消してしまうのは簡単なことだ。彼らが本当に存在していたかどうか、そんなことはわからない、と言ってしまうのは、簡単なことなのだ。世界は、テクストという現象の世界と、存在という物自体の世界に分かたれている。ぼくたちは、ただ、テクストの内部で戯れることができるだけなのだ。

このような存在のペシミズム、いわゆる“言語論的転回”を、たんに否定してはならない。言語論的転回を諦め、実証の可能性を盲目的に前提にすることも、同じくらいに簡単なことなのだ。むしろ、突破口は、転回を徹底することによって開かれる。この思考を徹底したなお先に、歴史上の人物の存在を否定しえない、最後の可能性が残っている。すなわち、不可知の物自体の実在は、その定義上、証明不能であるという一点である。物自体でさえ、不確かであるという点では言葉=仮象かもしれないのだ。したがって、世界そのものが、《すべて言葉でできている》、という最後にして唯一の、そして証明不能の世界把握の可能性が、物自体の実在可能性と拮抗し、さらには物自体をも内包してしまうのだ。

存在そのものが、言葉のようにあるのだとすればどうか――たしかに聞いた、あの《声》が、いまはもうぼくたちの手の中から消え去っているように、存在そのものが、こうした《声》の形式を持つものだとすればどうか。だとするなら、歴史上の登場人物の存在の手がかりが、テクストしかないとしても、そのことは、もはや問題ではなくなる。なぜなら、存在とは、《声》のように、今ここから消え去ることによってはじめて成立するからだ。存在は物自体だから不可知なのではなく、消え去るせいで、不可知だと思いこむだけだ。テクストしか残っていないからといって、消え去ることによって定義される《声》としての存在を否定することはできないのである。歴史上の登場人物は、テクストではなく、言葉のなかに住まう。本当の本当の世界において、歴史は、ひとが間違ってそう思っているような文献ではなく、言葉のなかにしか存在できない。プラトンや空海たちは、妖精のようにこの世に存在しているのだ。言葉は、声のように、ひとの主体を離れた無署名なものとして、この世界に実現される。テクストから逃げ去っていく声、差異としての言葉。それこそが、《悲劇》としての歴史なのである。《文学者》を除くと、十九世紀には、この《悲劇》を明晰に発見した人物が二人いた。もちろんひとりはニーチェであるが、そこにマルクスを数えることは不可能ではない。二十世紀には三人。ベンヤミンとフーコー、そしてドゥルーズである。

かつて、ストア派哲学者のクリュシッポスは、こんなことを言っていた。「車と口にすると、口から車が飛び出す」。ぼくはこの言葉が大好きだ。これを論理学上のパラドックスだと考えてはいけない。そうした思考法は、書物のなか、大学の図書館のなかでだけ、可能なものだ。もちろん可能であるからには、そういう思考法も許されてはいる。だが、大学の外でそんなことを論じているようなひとは、本来なら避けられたはずの車に轢かれてお陀仏するほかない。「車」が車であるか、内在的には証明されない、などと言っているあいだにゲーデル主義者は車に轢かれてあの世行きなのだ。

クリュシッポスの奇妙な言葉は、まさしく《悲劇》として理解されねばならない。おそろしく悲観的で、それでいて真剣に笑う準備をいつも怠らないぼくは、この言葉が、証明不能であるにもかかわらず、本当に実現するのだと考える。彼の言うことは、パラドックスでもなんでもない。真理だ。ひとが車と口にするとき、実際に口から車が飛び出すのでなければならない(だから、おいそれと車などと口にしてはいけない)。ニーチェはストア主義者には厳しかったが、といって、彼が、プラトンからヘラクレイトスへ、というクリュシッポスと同じ思考の歩みを歩んだことを忘れてはならない。ニーチェの本質は、クリュシッポスの言葉が《悲劇》であることを、即座に理解したはずである。

だが、カントならどうだろう? 限界を設け、限界を超えることを嫌う彼は、こうした操作を行なうにちがいない。車と口にすると、口から括弧つきの「車」が飛び出す。……

こんなことをいまにも言いそうなカントは、ぼくにとっては、真っ向からの敵である。

マルクスは、こう言っている。「歴史は繰り返す、一度目は《悲劇》として、二度目は《笑劇》として……」。この謎めいたマルクスの言葉を借りるなら、カントは、《悲劇》を、《笑劇》に変えてしまう張本人である。カントは、一度目の反復である《悲劇》を見ようとせず、二度目の反復だけを見ている。一度目の《悲劇》を物自体と考えて黙殺し、二度目の《笑劇》を現象として批判的に受け容れる。たしかに、車という言葉をなかなか信じられず、そのあげくに車に轢かれたとしたら、それは《笑劇》だろう。だが、ニーチェなら、こう考える。《たしかに、車など来ない。だけどぼくは、それでも言葉どおり、車に轢かれて死ぬのだ》。ニーチェは轢かれて死に、そして彼は死にながら笑う。これはもちろん、《悲劇》であり、そしてなおかつ《笑劇》である。

カントは、言葉を、意味のなか、たとえば車なら車の「意味」に回収してしまう。車という語は、意味に触れているだけで、現実の、つまり物自体としての車には、触れることができない……。カントの批判が息の根を止めるのは、理性ではない。先のクリュシッポスの言葉が実現する、《芸術》である。ドゥルーズが、彼を「敵」だと言い放ったのも、もっともなことなのだ。

だが、ニーチェは言っていた、「おお、敵よ。敵がいない!」 ニーチェにとっても、カントは、ほとんど最大の敵なのだが、にもかかわらず、《敵はいない》のだ。ドゥルーズがカントについて論じるのは、この観点からである。

「敵」であるカントは、ドゥルーズによって、どのように乗り越えられるのだろうか。言い換えれば、どのように肯定されるべきなのだろうか。それはまさしく、カントの哲学を芸術の観点から、芸術的に描くことによって、実現される。芸術を批判し、息の根を止めようとするカントを、芸術化することによって、カントはついに肯定される。ドゥルーズの『カントの批判哲学』のあらすじを大急ぎで書くなら、以下のとおりだ。

カントの三批判――『純粋理性批判』、『実践理性批判』、そして『判断力批判』は、ある無意識的な、そして直観的な哲学者による次のような物語に置き換えられる。物自体と現象の対立を守り、その縛めを自らに課し続けて来た、マゾヒスティックな男が、最後の批判において、趣味判断、すなわち《美》を論じるにあたり、その縛めはひとりでに破られ、彼の秘めた能力が解放される。彼は、われを失って、自身がそれまで築き上げてきた、壁としての哲学のわずかな亀裂に指を差し入れる。そして望んで得たわけではないオルガズムの中で、芸術の可能性に触れる。カントの哲学は、最後の批判によって、完成ならざる開かれた結末を迎える。カントは、ヘラクレイトスに出会うのだ……。

ドゥルーズは、徹頭徹尾、三批判書を一個の文学作品として読んでいる。こうしたドゥルーズの読みは、ニーチェ哲学の正真正銘の勝利を示しているし、誤解の余地はないと思う(ドゥルーズのカント論は、基本的にニーチェ論の一部である)。とはいえ、ドゥルーズをアカデミックに読むことに慣れたひとたちは、これをカントの可能性の意味に、どうも誤解してしまうらしい。たしかに、ドゥルーズは、カントを、例によって最大限可能な形で哲学者として持ち上げているし、可能性がないわけではもちろんないのだが、カントの哲学は、ドゥルーズのそれとはまったく異なる。ドゥルーズの『カントの批判哲学』は、むしろ、カントという大河さえ、差異のままに飲み込んでしまう、巨大な海洋としてのドゥルーズ哲学の本質を、逆説的に示しているだけである(敵も友も同じく飲み込んでしまうのが、ドゥルーズの内在平面である。アラン・バディウのようにそれを「一者」(=神)だと言って批判したければしたらいいが、内在平面が一者かどうかは、問題の本質ではない)。ドゥルーズ自身が「敵」と呼んだように、彼の肯定の哲学のなかでは傍系に位置するこの小品を、過度に取りあげる必要は、あまりないだろう。度がすぎると、ドゥルーズの本質を見失いかねない。

ドゥルーズは、ときに無味乾燥なアカデミシャンのあいだで、やたらにもてはやされる良識的なカントを、マゾヒストの分裂症患者として描いて見せた。それはそれで興味深く、またこれはこれで、《リアリズム》の表現なのだが、ニーチェの肖像ほどには、美しくない。

ところで、カントに見つからないように、物陰に隠れてこっそり言うが、言葉についての言葉の芸術である《文学》には、いつも次のような問いが課せられている。なぜ、歴史は、出来事でありうるのか。いかにして、言葉は出来事へと実現されるのか。こうした問いは、おそらく、さらにもう一歩進められるはずである。《言葉は、いかにして悲劇的な道筋をたどって、つまりその発話者を特別なやり方で巻き込みながら、自己自身を実現させるのか》。ギリシア人は、《悲劇》を最初に発見した民族だが、日本人もまた、そうした民族のひとつであったかもしれない。そのことは、すこし頭の片隅に置いておくべき事柄だと思われる。……

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