犬のディオゲネスが人間を探して昼間の市場でランプを灯していたのは、アテナイがアレクサンドロスのマケドニアに従属する頃の話。ニーチェはこのエピソードから、超人の概念に行き当たる。超人は、ヒューマニズムを否定しているわけでは […]
文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。 こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれ […]
ミシェル・フーコーは、国家、あるいは権力について、「管理」される状態や「規律」化された状態と結びつけて議論した思想家だと考えられている。だが、彼は管理や規律とあわせ、「主権(法)」についても論じていた。むしろこの三つの状 […]
アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない(作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せ […]
いつしか自分の頭に住みついた片頭痛が日曜日の深夜に勢いを増す。発作的に激烈な痛みと嘔吐に襲われる。ミシュレやニーチェのかかった病と同じなら少しは気は休まるが、肉体的にはこれまで感じたことのないほどの痛み。 日々の頭痛の種 […]
「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐 […]
量子力学のことが知りたいと思って、京都大学は基礎物理学研究所の周りをうろついていると、なぜか湯川秀樹が残した膨大な資料(そこには、一九三〇年代に書かれた中間子論の自筆の原稿が含まれるばかりでなく、バートランド・ラッセルや […]
わたしの愛するポストモダニストたちがいる(この言葉を、あえてよい意味で使おう)。年齢順にいえば、ニーチェ、ベンヤミン、ドゥルーズ、そしてフーコーである。ホメロスやプラトン、デカルトやゲーテも愛しているが、彼らには途方もな […]
天から降りてくる無数の雫。漏斗としてのわれわれ(1)は、そのいくつかはあふれさせながらも、いくつかを受けとめることに成功した。受け止められた雫は滞留しながら中心に向かってゆっくりと流れ、次第に速度を増して大地に落ちるだろ […]
アレゴリーから小説へ。文学の歩みにおけるその日付を明示したのは鬼才ホルヘ・ルイス・ボルヘスである。彼は言う。 アレゴリーから小説へ、種から個へ、実在論から唯名論へ――この推移は数世紀を要した。しかも、わたしはあえてその理 […]
五月革命以降、一九七〇年代を前後するわずかな期間に、フランスには哲学の帝王が君臨していた。ミシェル・フーコーである。もちろん、帝王という用語には注意せねばならない。というのも、後世の歴史家に誤解を与えてはならないからだ。 […]
この三人について、ずいぶん、言葉を費やしたと思う。とくに、デリダについては、ここでは比較的たくさん語ったし、本当のところをいえば、もうあまり文句はいいたくない。きっと彼の人柄は、素晴らしいものだと思うから。それに、わたし […]
「わたしは理論的に小説を書こうと思っているし、君もそうすべきだよ」といったのは夏目漱石で、彼はわたしの胸の上に乗って、両腕を押さえつけた。わたしはもがきながら、「それでは自由がないじゃないか!」と言ったかと思うと、それで […]
言葉は、それが言葉であるかぎり、きっとなんらかの対象を持っているはずである。対象というのは、要するに、出来事であるとか、物であるとか、そういうもののことである。たとえば、「海」という言葉は、現実の《海》を指示しているはず […]
暴力について、もう少し考えてみよう。 暴力は、権力や重力などと同様、その名の通り《力》の一種である。《力》とは、複数の項を結びつける(あるいは遠ざける)《関係》の、作用的側面を指していわれる言葉である。逆に言うと、《関係 […]
柄谷行人は次のように言っている。 カントによれば、統整的理念は仮象(幻想)である。しかし、それは、このような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」です。カントが『純粋理性批判』で述べたのは、そ […]
他人について知りたい、という欲望は、ごく自然なものだろう。ひとが、他人の何に興味を持つかはさまざまであろうが、やはり、気になるのがプロフィールではないか。そこには、名前や出身、血縁や地縁、生没年のみならず、場合によっては […]
文字の方がひとりでに話し出す。だから、それを代弁してやるナレーター=歴史家の必要はないという。本当にそんなことがありえるのだろうか。然り、それがミシェル・フーコーの言表(エノンセ)である(1)。じつは、言表は、デリダの言 […]
何かを語ること、何かを書くことは、それがどのような内容であろうと、それについて肯定することを意味し、またそうであるがゆえに、同時に、語った内容とは別の何かについて沈黙すること、ないしは拒絶することを意味する。つまり、一言 […]
わたしの専攻はニーチェとおなじく古代ギリシア・ローマ史であるわけだが、「史」という言葉が定義上どのような範囲をもつにせよ、やることは決まっている。文献をひたすら読むことである。たしかに、“東洋”の端に位置するこの国にあっ […]
オスカー・ワイルドは言っている。「けっして起こらなかったことを正確に記述するのが、歴史家の仕事である」と。JLGの作品にも引用されていたこの言葉は、いかように解釈されるべきなのだろうか。 歴史家は、その探求の対象に、前期 […]
似ていることを云々することは、似ていないことを際立たせることであって、実際にはそちらの方が重要であり、それはヘーゲルが反面教師的に教えてくれたことでもある。似ている、と言うことは、似ていないと言うことに等しい。…… 歴史 […]