歴史の方法

history
2002.05.03

オスカー・ワイルドは言っている。「けっして起こらなかったことを正確に記述するのが、歴史家の仕事である」と。JLGの作品にも引用されていたこの言葉は、いかように解釈されるべきなのだろうか。

歴史家は、その探求の対象に、前期だとか後期だとか、中世だとか近代だとか、とかく分割線を引きたがる。この分割線は、視覚が物体に与える輪郭と同様、彼の結論を導くある種の仮象でしかないのだが、いつのまにか、対象そのものがそのように分割されているかのような錯覚を与えるようになる。別の歴史家はこれに反論して、また別の分割線を主張する。こうなってしまったときには、もはや議論は泥沼になっている場合が多い。おおむね、これらの分割は、近代的な時間軸がもたらす進化論あるいは退化論的な時系列順を暗黙に前提していることが多いのも問題である。

たとえば、ある文学史家が、ある作家Xを、その作品によって、前期だとか、後期だとかに分割するとしよう。その背後には、人間関係の軋轢や、経済状況の変化、あるいは政治状況の変転があり、それが彼の作品に反映される……。このようにして引かれる分割線を、しかし、全否定することはできない。というのも、確かに、たとえあるひとりの人物(ここでは「ある作家X」)が対象になっている場合でも、絶対的な単純性を要求することができない複数の要素の集合である以上、対象は不可避的に分割されねばならないから、ということもある。だが、それにもまして、全否定できない理由になっているのは、逆説的だが、複数の要素の集合である対象を明確に分割することが、そもそもほとんど不可能だからである。仮にそのような分割を受け入れるとしても、おそらくはほとんどのケースで、一方の要素に他方の要素が入り混じっているのは当然である。分割は、奇跡的な確率でしか、対象とは一致しないのであり、したがって、分割そのものを、当の分割のみでもって批判することは、ほとんど無意味であり不毛なのである。前述の、かぎりなくゼロパーセントに近い奇跡的な一致をみる場合を除けば、およそ対象の分割は、あくまで結論をみちびく仮象として、あるいは手段としてのみ認められているのであって、対象そのものが分割されているのではけっしてない。つまり、一般に問われなければならないのは、その分割線によって、対象をどのような姿かたちで表現しようとしているかにある。

本来、分割は、極力避けられなければならない。対象自らが自らを完全に分割していないかぎり(ほとんどありえないことだが)、それは越権行為である。そもそも分割する者は、対象を完全に把握することを放棄しているがゆえにそのような分割が可能になっているのである。しかし、じつは対象を完全に把握できるという考え自体がすでに越権行為なのであり、したがって、分割は、いわば、そのような傲慢に対する抑制としてある。その分割が不可避的に対象を変形してしまうとしても、ひとは、このような分割なしに対象を把握することはできない。したがって、われわれは、一度は倫理的要請から対象のまったき把握が試みられたあとで、対象の変形を美学的判断(趣味判断)を通して受け入れるほかないのである(1)

たとえば絵画の場合を考えてみてもいいが、絵画は、まず、自然の模倣(ミメーシス)として現れる。そのようなミメーシスによって、対象がそっくりそのまま再生することはおよそありえないことだが、しかし、ミメーシスは、いわば倫理として要請されるのであって、美的判断を問われる以前に必ず通過する審級なのである。ピカソのキュービズム的な絵画を三歳の子供が書いたとしても評価されえないのはそのためである。

しかし、たとえ分割そのものは否定しえないにしても、まっさきに疑ってかからねばならないのも、またこの分割であることは瞭然であろう。分割は、そもそも対象を把握するための仮象でしかないのだから。したがって、もしある歴史家が、他の歴史家の分割をそっくり無批判に受け入れるのなら、その結論は、同じではないにしても似通ったものにならざるをえないだろう。

分割線は引かれない方がよい。しかし、それでも分割線が引かれざるをえないのだとするなら、分割者自らが吟味した最少のそれが引かれるべきである。これが歴史学の方法である。つまり、冒頭のワイルドの言葉(「けっして起こらなかったことを正確に記述するのが歴史家の仕事である」…)は、このように解釈することができる。「歴史家」という用語が倫理を保ちうるかぎりで、歴史家は「けっして起こらなかったことを記述する」しかなく、美学的見地からこのことを最大限に活用するほかない、というわけだ。

しかし……。

この手の通俗カント主義的な歴史学はおもしろくないし、実際には、問われねばならない部分をまだ残している。この時点では、まだ、よく言って超越論的な段階にとどまっているのである。確かに、分割は、ほとんどの場合、仮象としてしか存在しない。しかし、この分割が、文字どおり画期(エポック)として、いわば時代の雰囲気――物自体として存在している可能性はないのか。近代的な時間軸や、あるいは中世キリスト教的終末観とは無関係に、画期は必ず存在している。ニーチェの言うような、生成変化として。

われわれは、歴史家が歴史(対象)に対して引く分割線を、最終的には美学的判断によって考慮せざるをえない。ローマ共和政を樹立した最初のブルータスや、ローマ帝政への道を拓いたカエサルは、どちらがより分割線としてふさわしいのか、結局は美学的に判断するほかないのである。それならば、この美学的判断そのものを可能にしている公準を問うことはできないのだろうか。われわれの美学的判断は、まさに、今日の時代の雰囲気というものに左右されている。時代の雰囲気とは、つまり、ベンヤミンが言うような、流行のことだ。流行と言っても、たとえば、意味や国境を可能なかぎり捨象したり、二項対立や単線的な進化論をしりぞけ共存可能な生を探求したりするような、あの今日的な流行のことではない。意識可能な流行など、トマス・クーンの言う、パラダイムチェンジとして説明できるようなものでしかなく、それらは結局、仮象にとどまっている。わたしの言う流行とは、流行の中心にいる、というよりはいざるをえない個人がそれと感じることができない、徹頭徹尾、無意識的なものだ。したがって、この《流行》について言及しているテクストはいっさい存在しない。なぜなら、それを把握している同時代人は存在しないからである。だが、しかし、《流行》は確実にテクストのなかに存在している。書かれてはいない、だが、書かれている。それは、いわば、それ自体不均衡であるようなテクストが内包する差異が、残余として、無限に反復されることによって織りなされる動的な安定状態、すなわち《イデア》として現れる。この、諸テクストの差異とその反復が織りなす《流行》が、「あるとき」を境に変換するとしたらどうだろうか。この「あるとき」とは、ドゥルーズがサミュエル・バトラーから借用した用語で言えば、エレフォンerewhonである。いまここ(now here)として人々の目の前にありながら、けっして認識されることのないエレフォン。「未見にして未聞の、このうえなく発狂した概念創造の企て」としての経験論。その変換を生み出した同時代人ですら知りえないその当の変換の瞬間(エポック)を把握することは、つねに歴史家に、それも真の歴史家に残された仕事なのである。たとえば、ミシェル・フーコーの仕事を見ればよい。彼が網羅的に――と言っても、いつも擬勢にとどまっているような結果から見られた網羅ではなく、あくまで生成変化によりそうものとしての――エピステーメー(認識論的布置)として取り出したそれは、まさにそのような《流行》であり、その変換の瞬間である(2)

エレフォン――歴史の亀裂に生じた襞を押し広げるようにして、亀裂に棲息する者が知る由もない時代の息吹を受けとり、救い出す者。それが歴史家である。いまや、冒頭のワイルドの言葉は正確に理解することができる。「歴史家の仕事」とは、「けっして起こらなかったこと」――しかし、それは真実でありうる――「を正確に記述すること」なのである。

すべての大人は、子供たちに、そのような歴史家たることを期待している。大人がけっして知ることができなかった真実を、子供たちは知ることができるし、そして、知っているはずなのだ。

【註】

  • (1) たとえば、フェルナン・ブローデルの『地中海』は、そのような試みの最良の作品のひとつであろう。ご存知のように、そこでは、歴史学において自明とみなされてきた中世や近代、あるいはもっと狭苦しい分割線は、ほとんど前提になっていない。
  • (2) フーコーは、その著作『言葉と物』において、たとえば、カントを、古典主義時代と近代をつなぐ蝶番として、歴史的に相対化したわけだが、もちろん、彼は、カントの同時代に、二つの時代にある二つのエピステーメーのあいだの変換の瞬間と並行してフランス革命があったことを念頭に置いているはずである。だが、そのことは指摘せず、ただ、テクストの記述のみを対象に変換の瞬間を明らかにしている。いや、というよりも、フーコーの意図を汲み取るなら、このように言うべきだろう。そのような諸テクストの記述――すなわちエピステーメー――の総体的な変換とフランス革命は、彼の書物の中で、まさに同時並行的に起こっているのである。フーコーは、同書でこう言っていた。「ある文化のある時点においては、つねにただひとつの≪エピステーメー≫があるにすぎず、それがあらゆる知の成立条件を規定する」。多くの歴史学者が疑問に付したこの記述は、フーコーが、《網羅》という概念を、生成変化によりそう、エピステーメーの成立の条件として見ていたことを暗示している。

HAVE YOUR SAY

_