アンチ・カンティアニズムII

philosophy
2006.07.24

柄谷行人は次のように言っている。

カントによれば、統整的理念は仮象(幻想)である。しかし、それは、このような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」です。カントが『純粋理性批判』で述べたのは、そのような仮象の批判です。その一つとして「自己」があります。同一であるような自己とは仮象です。ヒュームがいうように、同一の自己は存在しない。たとえば、昨日の私は、今の私ではない。それらが同じ一つの私であるかのようにみなすことは仮象である。しかし、そのような仮象は生きていくために必要です。今の私は昨日の私と関係がないということでは、他人との関係が成り立たないだけでなく、自分自身も崩壊してしまう。だから、同一の自己が仮象であるとしても、それは取りのぞくことができないような仮象なのです。(『世界共和国へ』岩波書店、二〇〇六年、183‐4頁)

だが、私ならこう言う。むしろ、「自分自身が崩壊」するのは、今日の私と昨日の私とを、まるで同じであるかのように見なすときである、と。また、仮象Scheinについても次のように言うだろう。「なければひとが生きていけない」のではなく、生きている限り、ひとに付きまとうものである、と。さらにいえば、もしかりにここでの柄谷の意図がヒューム批判なのだとすれば、柄谷の言い分はあまり生産的とはいえない。なぜなら、ヒュームは、同一の自己など存在しないと言っているのであり、それに対して同一の自己がなくなってしまうと反論しても無意味だからである。

ふつう、現実において、ひとは、絶えず《現在》を生きている。そこでは、すべてがつねに新しく、また、すべてがつねに同一である。ひとはつねに《今日の私》である。だが、人間の表象システム(自然把握のあり方)が背負った構造主義的な限界のために――簡略化していえば理性のために――、人間は《昨日の私》を引きずってしまう。それらはつねに反省的に立ち現われ、超越論的自我として振舞う。彼は言う、「お前は私の子である」、と。柄谷が言うのとはまったく反対に、「自分自身が崩壊」するのはこのときである。なぜなら、「自分自身」は、たえず《現在》にしか存在しないからである。にもかかわらず、昨日の私が今日の私を侵犯し、自己主張を始めるからこそ、「自分自身」は崩壊の危機に直面するのだ。カントが批判したのは、こうして絶えず立ち現われる超越論的自我なのであって、だからこそ、彼はそれを「輝かしいにもせよ実はまやかしにすぎない仮象(1)」であると非難したのである。

 《昨日の私》と、《今日の私》が別人であるということだけから、私は私の現実を構成してよい。《昨日の私》とは、今日の私からみた理念にほかならず、本当は、《昨日の私》とは、二重の意味で――つまり、現実においても、表象においても、《今日の私》なのである。当たり前だろう、今日、自分が《昨日の私》だと真剣に考えている健康な「人間」はひとりもいない。ひとはつねに、《今日の私》なのである。逆に、健康さとは、《今日の私》と《昨日の私》を混同しないことにこそある。たとえばニーチェのこの言明。「私は病人の正反対である、実は私はきわめて健康なのだ」(一八八八年)。にもかかわらず、《昨日の私》――それは、どこをどうひっくりかえしても、理念以上のものにはならない――を《今日の私》と同じに扱うということは、理念の構成的使用以外のなにものでもない。こうした使用は、回避可能なあらゆる誤りの原因なのである。カントが批判したのは、むしろ柄谷のように、《昨日の私》という仮象に何か特別な意味を込めるような思考にほかならなかったはずだ(2)

近代以前のひとびとは、そうして絶えず立ち現われては消え去り、消え去ってはまた立ち現われる超越論的自我に対して、ただちに、《神》の名を付与してきた。それはもちろん、カント的な意味では、「人間」の自然把握の構造的な限界に端を発する、典型的な仮象にすぎない。要するに、そうした「人間」の限界を、《神》に預けていただけなのである。近代以前の人々は、そうすることで、狂気の可能性を排除することができると考えたのだ。前近代の人々のもつ慎ましい笑いや、ときに現われる怒りや悲しみの激しさは、ここにこそその原動力がある。レネ・デカルトや、あるいはニーチェが真のキリスト者と呼んだブレーズ・パスカルが、狂気の可能性を前もって排除することができたのは、まさにそうした信仰の力にほかならない。いや、むしろこう言うべきだろうか。彼らは、《神》が晩年にあることを知っていたのだ、と。いままさに尽きんとする《神》の命の炎の影で、てぐすねを引いて待っている狂気の存在に気づいていたのだ、と。だからこそ彼らは、民衆の目を欺き、少しでも狂気の可能性を未来へと遠ざけるために、《神》の存在を推論や賭けによって証明しようとしたのである。彼らの行なった推論や賭け、それはむしろ、神の存在を問うことの排除であり、一種の時間稼ぎである。だからニーチェは、とりわけパスカルを好ましく思った。彼は、人間が、神というよりはむしろ、狂気と隣り合わせであることを無意識のうちに知っているに違いない。……

むろん、ここでいう狂気とは、人間が最初から抱えている限界のことであり、《神》とは、人間のもつそうした限界についての名である。カントは、デカルトやパスカルらによって逆説的に追い詰められていった瀕死の《神》に、ついにとどめを刺した。なぜなら、《神》は、自ら窒息死したりはしないからである。人間が絶えず生産する狂気こそが、彼のする息だからである。カントの突き立てたナイフとは、次のような言葉であった、《お前は私の仮象にすぎない》。

もちろん、そのことによって、《神》すなわち狂気は人間の内に忍び込むことになった。なぜなら、私たちがとどめを刺した仮象=神は、もちろん、自然界で経験しようのない、超越論的な(すなわち内在的な)仮象だからである。死んだ《神》か、それとも内なる《狂気》か。これが、カントの提示したアンチノミーである。もちろん、そのもっとも安易な解決方法は、《内なる神》、すなわち《精神》を想定することである。神は死んだと語るフォイエルバッハは、つづけて「天上で費やされた財宝を地上で取り戻さなくてはならない」と言った。どこまでいっても「まやかしにすぎない」財宝、すなわち《神》を、人間の内側――精神とでも呼ばれるべき場所に再び発見する。これがカントのアンチノミーの解決方法だとでも言わんばかりのフォイエルバッハの言葉は、結局のところ、超越論的仮象に対して、意味を与えすぎているのである。《狂気》であることも知らずにそれを取り戻せというフォイエルバッハよりはよほど健康と言うべきだが、柄谷にしたところで、もはや死んでしまった《神》を選べというのだから、ほとんど大差ない。近代的不健康か、それとも中世的な健康か。死んだ《神》も、内なる《狂気》も、どちらも有害なことにかけては最初から同じものではないか。

カントは、理性の意味を限定するために、あまりに多くのページを費やした。理性が神にとどめを刺すとき、同時に、理性も死ぬということを言うために、彼は少しばかり遠回りをしすぎた。いや、その点で彼を責めるのは酷であろう。むしろ、彼が『純粋理性批判』を書いていた時代と、近代とは、あまりにも状況が違いすぎた、というほかない。彼は、来るべき一九世紀以来のエクリチュールの時代を知らなかった。だから、超越論的理性の脅威をきわめて甘く見積もった。理念に統整的使用を課す、というだけで、十分に事足りると考えたのである。彼は言う。

 最初は純粋理性こそ経験の一切の限界を越えて知識を拡充するものであるかのように思われた。しかし純粋理性を正しく解してみると、それは統整的原理しか含んでいないことが判るのである。そしてこれらの統整的原理は、なるほど悟性の経験的使用がなし得るよりも広大な統一を命じはするが、しかしこの悟性使用が次第に近づこうとするところの目標を更に遠くへ推しやり、悟性使用の自分自身との一致、調和を体系的統一という理念によって最高度まで高めるのである。(『純粋理性批判』中、356ページ)

統整的に使用されたもののみが純粋理性であると呼んだおかげで、消え去るべきはずの、純粋でない理性=神は、自身の居場所を巧妙に作り出した。すなわち、エクリチュールにである。エクリチュールに消し去りがたく刻印された署名は次のように語るだろう。「昨日の私は、今日の私である」、と。もちろん、このテクストは、たしかに、《私》が書いたはずのないものだ。なぜなら、《今日の私》は、けっして書き手ではなく、読み手なのだから。なのにどういうことだろう! このテクストには、《私》が所有しているはずの固有名が刻印されているではないか! この署名つきのエクリチュールは、その理念(言語)の使用が統整的か構成的かの区別を曖昧にしてしまう。わたしたちは、この署名つきのエクリチュールを、たんに経験から与えられたものではない仮象として退けることができない。私がその固有名(作者の名)の所有を主張する限り、それは超越論的な仮象というよりは、経験がもたらす現象とみなされてしまうからである。むろん、たしかに、カントは次のように言って主観的な認識を区別していた。

客観的に見られた認識内容をいっさい度外視すると、およそ認識は、主観的には、歴史的(historisch)であるか、さもなければ理性的(rational)であるか、この二つしかない。歴史的認識は、与えられたものから成る認識(cognitio ex datis)であり、理性的認識は原理にもとづく認識(cognitio ex principiis)である。(『純粋理性批判』下、125ページ)

ここでのカントの区別は、絶対的に正しい倫理的な区別である。だが、自身の署名の入ったテクストについてはどうか。いったい、この、署名つきのテクストが主観に与えるのは、歴史的認識なのだろうか、それとも理性的認識なのだろうか。もちろん、私なら即座にこう答える、これは歴史的認識にすぎない。つまり、外から与えられたものにすぎず、けっして内在的な理性から出たものではない。つまり、これは、私のテクストではない。いくら私の署名があろうと、そんなもの、わたしの純粋理性は知らない、と。だが、おそらく、そう語ることは、社会が許すまい。私がそうすることでその存在を否定しているのは、歴史そのものだからである。また、歴史によって保証されている社会そのものだからである。外から与えられた歴史的認識と、内在的な理性的認識というカントのきわめて楽観的な区別は、歴史を肯定する限り、結局は必ず禁止されるのである。この署名つきのテクストという、歴史的認識と理性的認識の結節点は、カントの『批判』が残した致命的なほころびなのである。一九世紀の到来を待たず、カントが、消え去る寸前まで揮発させた理性は、署名つきのテクストの曖昧さの中に居場所をみつけてしまったのだ。かくして、死んだ神は、《私》に付きまとう固有名の手を借りながら、超越論的理性(自我)と呼ばれて幾度も息を吹き返す亡霊になったのである。

ミシェル・フーコーが正しく指摘しているように、一九世紀以来、ひとびとは真の意味でエクリチュールの時代に突入したと言っていい。とりわけ文学者は、一九世紀に到って、狂気と隣り合わせとなろう。フーコーは言う。

十九世紀以降、反対に、大詩人のエクリチュールの下から、狂気におちいる危険が湧き出すのが常に見えてくるのです。(略)現在では、狂気の危険と対決することなしには、人は、エクリチュールというあの奇妙な経験を企てることはできません。ヘルダーリンが、そしてまたある程度まではサドが、われわれに教えてくれたのはこのことなのです。私の考えでは哲学についてもことは同じだと思います。『省察』の始めのほうでデカルトははっきりと次のようなことを言っています。「あるいは私は夢を見ているのかもしれない、感覚が私を欺いているのかもしれない、しかし確実に私に生じるはずのない一つのことは、私が狂気におちいることだ」、と。(略)しかし彼にとって大いなる危険があるとしたら、自分でこう思うことです。「もし私が狂人だとしたら、理性的思考を始めることを望まなくなるのではないか、いま行なっているような理性的思考を狂気について行なうこと、夢について行なうことができなくなるのではないか」と。内側にしかも始めから狂気という地雷が仕掛けられているのかもしれないという事実は、デカルトが直視することのできなかった何物かであり、それを直視しても、すぐにそれを拒絶するような何物かであったのです。
 ところでニーチェとともに、ついにあの瞬間がおとずれるのです、すなわち、哲学者が、「結局のところ、私は狂人なのかもしれない」と考えるような瞬間が。(「文学・狂気・社会」『ミシェル・フーコー思考集成III』筑摩書房、1999年、446-7ページ)

理性には、あらかじめ狂気という地雷が埋め込まれている。ここでいう狂気とは、すなわち、《昨日の私》は《今日の私》である、というこの混同にほかならない。もちろん、この地雷原を発火させるのは、あの、署名つきのエクリチュールである。ジャック・デリダが行なったいささか見当違いの音声中心主義批判の喧騒の中で、フーコーがニーチェを継承して的確に指摘していたエクリチュールのもたらす致命的な危機は、雲散霧消していたといっていい。神なき時代の古代ギリシア人のあの快活さは、エクリチュールを信用しないこと、その一点にこそあったのである。知性論者の代表格とみなされるプラトンが、経験以外の何ものでもないパロールへ捧げたあの過剰な礼賛こそが、彼らを古代ギリシア人にしていたのである。

わたしたち近代人は、必ず歴史を学ぶ。そのとき、世界史であろうと、自国史であろうと、それを、自身の所有した歴史として学ぶ。けっして自身の外部で行なわれた対象としてこれを学ぶのではない。自署の入ったテクストから、わたしたちは、教わることなどできるはずのない、理性の内在性を、にもかかわらず教わってきたのである。そうして学ばれた歴史は、自己の限界を軽く越えた存在にまで、自己同一性を付与するだろう。歴史は語る、私は、あなたなのだ、と。したがって、この狂気を抱えているのは文学者だけではない。《神》の死以来、《神》を内に抱え、しかもテクストの洪水を浴びて近代人と名指されるようになった、すべての「人間」なのである。

死んだ神よりも性質の悪い、カントのほころびに隠れた「超越論的理性」そのものを批判せぬ限り、柄谷行人を選ぼうが、ヘーゲルを選ぼうが、事態は同じである。もう世界戦争を起すわけにはいかない、もっとニーチェの声に耳を澄ませなければならない。……

【註】

  • (1) 『純粋理性批判』中、岩波書店、356ページ。
  • (2) ところで、わたしは、仮象なしにひとが生きていけないということを否定しているのではない。わたしが批判しているのは、仮象なしには自分自身が崩壊するという観点である。

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