エノンセ

philosophy
2005.09.15

文字の方がひとりでに話し出す。だから、それを代弁してやるナレーター=歴史家の必要はないという。本当にそんなことがありえるのだろうか。然り、それがミシェル・フーコーの言表(エノンセ)である(1)。じつは、言表は、デリダの言う痕跡traceとほとんど変わらない概念である。少なくとも、この概念を出現させる手続きは、ほとんど同じである。すなわち、ここで働いているのは、デリダならエスパスマンとでも言うところの、一種の間隔化である。だが、痕跡が、なにかしら極端で身体的なものに依存しており、この身体の絶対的距離が、ある種の神学へと逆接続する回路となっているのに比較すれば――いや、こうした拙速な理解をデリダの責任にするべきではないのかもしれないが――、言表は、それらとは無縁である。そしてそのことによって、古文書学者であるフーコーは、むしろ声について語ったのだとさえいいうる。

それにしても、フーコーは、どうしてそんなものを作り出すことができたのだろうか――という問いはひとまず措こう。おそらく、フーコーの偉大さを讃えることにしかならないし、せいぜい、彼が徹底して反時代的だったからだ、としかいえないだろう。むしろ問うべきは、これだ。いったい、無数の言説のなかで、言表はどのように機能するのか、どのように機能するものが、言表なのだろうか。いったい、言表には何ができるのか、そしてどのようにすれば、わたしたちは言表を使いこなすことができるのか。

その答えは、べつにここに書く必要はない。彼の『知の考古学』を読めばすむことだし、この書物に寄せられたドゥルーズのテクスト、『フーコー』を読めばすむことだ。だが、蛮勇をふるって蛇足を付け加えよう。フーコーは、言表は「希少なもの」と言っている。事実、そのとおりなのであって、言表は、古文書から、何かを取り除くことによって実現される。しかも、これは重要なことだが、古文書のなかの言葉は、何ひとつ変えてはならない。とりわけ取り除くべきなのは、この文書(もんじょ:ドキュメント)の作成者は、しかじかのイデオロギー(たとえば共産主義だとか、国家社会主義だとか……)に満ちた人物だ、とかいった、《現在》が文書に対して抱く偏見の方である。そして、さらに重要なことは、通常、言表は、すでに穴だらけのスポンジ(2)だが、その穴を埋める必要はまったくない、ということだ。むしろ、この穴を十分に広げてやれば、言表は、ひとりでに語り出す。

ひとは、文書を読むとき、そこに想像力を働かせたがる。なぜなら、文書は、歴史家が描こうとするひとつの線分、すなわち“時代精神”に対して、つねに足りないから――本質的にいって、文書が余るということはありえないのである。だからこそ、歴史家は、文書の作者が言わんとしていたことを代弁しようとし、その文書から、それが書かれた当時の“時代精神”なるものを再構築し、やはり、それを代弁しようとする。これがいわゆる“歴史=物語history”である。この場合、歴史家は、文書から作者へ、作者から時代へ、という足取りを示す。文書―作者―時代。この、文書から時代に至る道のりを媒介し、かつ邪魔しているのは、この“作者”であるように見えるだろう。歴史家は、この“作者”という主観的なものを取り除く。そしてその穴を、もっと客観的な別の何か(3)で埋めることで、“時代精神”を文字通り実現する。だが、この歴史家は、文書と作者が不可分であるという思考に囚われすぎている(だから彼らは自己批判の必要を声高に叫びもするだろうし、またそうしながら、代弁しようとする意志だけは手放さないのだ)。もし、文書が、じつは“作者”と直接的な関係なしに出現するのだとすればどうか。

実際、文書と作者とには、直接的な関係はない。というか、文書と作者が無関係であるような文書を見出すことによって、言表が目の前に現われる。問題は、文書と作者が不可分であるという、“われわれ”の思考の方である。先にわたしは、この文書の作成者はイデオロギーに満ちているという、偏見を取り除くべきだと言った。これを突き詰めていえば、この偏見とは、文書には、前もって作者が存在するという思考にほかならない。こうした思考を受け容れている歴史家は、“作者”を取り除き、それを想像力で埋めようとするだろう。というより、彼が文書―作者という思考を受け容れているかぎり、彼が望むにせよ、望まないにせよ、想像力は行使されざるをえないのである。歴史家はイデアとしての線を描こうとするし、そうするかぎり必然的に見つかってしまう穴が不愉快きわまりない。かくして《想像力》とは、いきり立ったペンの切っ先で穴を埋めることなのだ(4)

だが、この場合の《想像力》は、単なる他者の侵犯にほかならない。想像力を用いるのが、すこし早すぎる。ここで言われる想像力は、おそらく名ばかりのもの。どれほど精妙であろうと、子供じみた空想と、本質的な差はない。わたしたちは、むしろこう考えねばならない。言表は作者とは無関係である。なぜなら、文字は、それが文字として実現された瞬間に、作者から切り離された、他者となっているからである。

先述したように、文字の世界を覆っているのは作者の忘却である。つまり穴である。しかし、文字が声の代替物と考えられているかぎり、文字は、作者と結びついた記憶の備忘録にすぎなくなる。そして、こうした思考が、穴を埋めようとする欲望――歴史=物語historyを生み出すだろう。だが、文字は記憶に従属しない。たとえひとが文字によって何かを思い出すことがあったとしても、それはもはやかつての記憶とは異なっている。そしてむろん、思い出された時点で、その文字はひとがその時点で所有する記憶とは別のものとなっているはずだ。文字は、作者の記憶を補うのではなく、作者を記憶の桎梏から解き放ち、むしろ忘却を促すのだ。そうであるがゆえに、文字は、作者とは切り離され、作者にとっては他者となる。だからこそ、文字は、ひとりでに語り始めるのだ。それをフーコーは、一般の歴史学と区別して、「考古学」と言った。考古学にとって必要なのは、穴を埋める《想像力》ではなく、穴を押し広げる《分析力》である。この《分析力》こそが、真の《想像力》と呼ばれても差し支えないものだ。だが、想像力なる語が余計な誤解を生むというのなら、避けるべきかもしれない。ともかくこの力は、付け加える力ではなく、差し引く力なのだ。言表とは穴の開いたスポンジであり、むしろその穴である。この「忘却の穴」は、むしろ、力によって、押し広げられなくてはならない。……

大事なことを列挙しておこう。

言表とは、穴である。だから、 文書とは、作者にとって、他者なのであり、大事なことは、書かれたことではなく、極端な言い方をすれば書かれなかったことである。言表は、差し引く力によってあらわれ、そしてその力が臨界に達したとき、作者が書かなかったことを語り出す――だからときには作者のことをすら語りだすような、ひとつの機械である。この機械を使いこなす力とは、ひとが誤って想像力と呼んでいるものを批判するような《分析力》である。

フーコーが言表を用いたとき、彼は、デリダが終わらせた声と文字の二元論の世界から、決定的な一歩を踏み出していた。『知への意志』から『快楽の活用』のあいだに一見してうかがえる改宗は、しかし、必然的であったし、むしろ連続性をもった、一貫した道のりであったように思える(あえて転換のポイントを見つけるとすれば、『知の考古学』が書かれた頃の短いテクスト、「作者について」だろう)。ひとは『知への意志』ばかり参照したがる。しかしむしろ、その後につづく『快楽の活用』、そして『自己への配慮』をこそ、読むべきだ。おそらくは『言葉と物』のころにはすでに完成していたであろう、言表を用いていた彼には、もう“作者=主体”など恐れる必要はなかったからだ。『知への意志』と『快楽の活用』のあいだに横たわる時間的空隙は、自分がもう主体など恐れていなかったことに気づくための、ちょっとした散歩だったにすぎない。そのことに気づいた彼は、だから、喜んで主体について語った。文字が主体などとは無縁に、ひとりでに話し出すのだとすれば、主体と文字の結びつきは、もっと生き生きしたものになるはずではないか。いや、もはや主体subjectなどという言葉は使うべきではない。objectとの、逃れがたい関係とは、“それ”は無縁なのだから。強いていえば、“それ”は、《自己self》。《自己》は、ドゥルーズのフーコーに対する優れた分析を借りていえば、《分析力》が対象を押し広げたときに生じる《襞》である。作者は、かくして、襞としての生を与えられる。言い換えれば、作者とは、文書によって生まれるひとつの帰結である――けっして文書の始まりなのではない。

【註】

  • (1) エノンセについて、詳しくは以下を参照のこと。ミシェル・フーコー『知の考古学』(中村雄二郎訳)河出書房新社、1981年、ジル・ドゥルーズ『フーコー』(宇野邦一訳)河出書房新社、1987年。
  • (2) シェルピンスキーのスポンジを参照せよ。このスポンジに空いた穴は、平面以上で立体以下の次元数、2.7268次元を実現するが、このスポンジが、たえずくり抜かれていくこと、すなわち時間的推移によって実現されることを想起されたい。
  • (3) じつのところ、かつての作者の存在の穴を埋める別の何かとは、要するに歴史家自身のことである。文書の作者を取り除き、そこに歴史家が割って入っているだけなのだ。彼にそうすることができるのは、自分の方がかつての作者よりも客観的だと信じ込んでいるからである。このような歴史家の存在を、《想像力》と呼ぶ。
  • (4) フロイトが、夢を、音声でもアルファベットでもなく、象形文字と関連させたのは正しい。だが、それを“記憶”に結び付けるべきではなかった。夢は“記録”であり、だから忘却に結びついている。夢において、ひとは分裂する。つまり、記録を追体験するもうひとつの主体があらわれる。したがって、問題は、動物が夢をみることについてである。

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