暴力についてII

philosophy
2006.11.12

暴力について、もう少し考えてみよう。

暴力は、権力や重力などと同様、その名の通り《力》の一種である。《力》とは、複数の項を結びつける(あるいは遠ざける)《関係》の、作用的側面を指していわれる言葉である。逆に言うと、《関係》とは、《力》の相互作用を、静的な状態としてみる場合に、用いられる言葉である。たとえば、恋人同士を結び付けているのは、《愛の力》だが、そうした力の相互作用を状態としてみる場合、それは《恋人関係にある》などと呼ばれるのである。

そこで暴力だが、これは、上記のような《力》によって結び付けられた項が、とくに物質的側面においてある種の破壊的作用をもたらす場合に、暴力と呼ばれる、と考えられる。しかし、物質的側面という規定は曖昧であるかもしれない。そこでいくらか難解になるが、力の作用している項そのものが成り立たなくなるほどに変容してしまうような力を、暴力と呼ぶ、と考えよう。たとえば、交通事故は、複数の項の出会いであり、したがって、何らかの作用がはたらいていると考えられるが、そこではたらく力は、むしろ両者の出会いを不可能にしてしまうだろう。その点で、交通事故には、一種の暴力がはたらいているとみなしてよいと思われる。ちなみに、権力は、そのような《力》の相互作用的な側面を極限まで切り詰め、黙殺するによって、ほとんど静的な状態と等質のものとして捉えられている《力》のことをいう。したがって、ミシェル・フーコーが正しく指摘しているように、権力は、《力》であるにもかかわらず、同時に《関係》を意味している。こうした観点を踏まえて言うと、暴力とは、項同士の《関係》を不可能にするような《力》の作用のことをいう(定義1)。

さて、暴力は、たいてい、一方が他方に対して優越しているときに振るわれるものである(定義2)。というのも、なんらかの物的変容をもたらす力によって結び付けられた関係項が、等位にあるとき、それを暴力と呼ぶことは少ないからである。たとえば、ある程度拮抗した力をもつレスラー同士が戦っている場合に、それを暴力だと呼ぶひとはほとんどいない。そうした戦いが、男と女、あるいは大人と子供のような非対称的な項によって行なわれた場合、そこにはたらく力を、わたしたちは暴力と呼ぶのである。この定義は、先の定義1を補完しており、あるいはたんに定義1で規定された《暴力》を別の面から述べているだけである。というのも、項同士が拮抗あるいは均衡あるいは安定していれば、《関係》は持続するはずだからである。逆に言うと、《関係》が持続しているかぎり、そこで振るわれているのは、いかに暴力的にみえたとしても、暴力ではなく、権力である。《関係》とは、すなわち権力のことである。

ところで、そうした非対称性にもかかわらず、両者に損害を与えずにはおかない点は、強調してよい。たとえば、イラク戦争は、とりわけ圧倒的な戦力格差を背景になされたという点で暴力的なものだが、これを仕掛けたアメリカ側に、損害が皆無であるということはありえない。むしろ、そうした格差にもかかわらず、アメリカ側にも損害(ここでは特に兵士を指す)が生じるのである。要するに、ひとを殴った拳が、傷つかずにはおれないようなものである。定義1で使った例でいえば、交通事故には、たしかに暴力的な力が作用しているが、とくに、車と人間身体のような非対称的な二項が事故を起した場合、そこにわたしたちは、暴力的な作用を見出すのである。もちろん、車が人間身体に対していかに圧倒的な《力》をもっていたとしても、車は必ず物質的損害を被る。とくに人間身体が死に至るような激しいものの場合、間違いなく、車も廃車に追い込まれるだろう。にもかかわらず、わたしたちは、人間身体の方には暴力を見いださない。あくまで、より強い力を保持していた側に、暴力を認めるだろう。

これらの点から考えるに、国家の「起源」に、収奪のような暴力を見いだす最近の主要な議論(1)には、ある疑問が生じる。といっても、わたしは、国家は暴力を振るわない、などと言いたいのではない。国家は紛れもなく暴力をふるう。わたしが疑問に感じるのは、暴力を国家の「起源」に持ってくることである。

上でみたように、暴力は、すでに、非対称的な力の格差を前提している。ある項の、他の項に対する優越なしには、暴力はけっして振るわれることはない。したがって、収奪を行なう国家であろうと、掠奪を行なう盗賊であろうと、暴力の存する限り、振るう者と振るわれる者とのあいだに非対称的な力の格差が生じているのは間違いない。問題は、この非対称性が、《正当性》あるいは《正統性》に変化する場合が存在していることである。人間にとって、非対称性は、ときに因果律として捉えられる。このとき、非対称性は、《正当(統)性》に変化し、かくして、暴力そのものが正当化され、そして隠蔽される。正当性を与えるのは誰か。暴力を振るう側ではない。振るわれる側である。振るう側が、自身の暴力に対して、正当性を付与することは永久にできない。そうである以上、正当性を付与するのは、必然的に振るわれる側なのである。こうして正当化されたとき、暴力は暴力であることをやめ、《権力=関係》となる。たとえば、父‐息子、王‐臣民、政府‐国民といった具合にである。おそらく、国家が形成されるのは、この地点なのだ。すなわち、父の暴力を子が肯定した時、家族国家ができあがるのである。けっして、暴力が振るわれた時点ではない。こうした《権力=関係》がひとたび形成されれば、上記の定義1で示したように、暴力は、必ず既存の国家を破壊する方向に作用する。つまり、国家が暴力を振るうとき、それは、かえって国家が己自身であることに失敗しているのである。たとえば、家族国家ができあがっている段階で、父がさらに息子に暴力を振るえば、家族国家は崩壊するように。

むしろわたしたちが問題にすべきなのは、国家を形成する暴力と、形成しない暴力とを区別することであり、そうした区別が何に依存しているのかを見極めることである。国家の形成は、この区別に依存している。諸々の暴力の中で、隠蔽される暴力、あるいは同じことだが、正当(統)性や必然性の与えられる暴力がある、ということであり、とくにこうした《隠蔽される暴力》=《権力関係》こそが、国家を形成しているのではないか、ということである。事態は、国家に暴力を認めて満足している者たちが思っているよりも、複雑なのだ。

重税に反対して火炎ビンを投げることも、暴動を取り締まるために催涙ガスを散布することも、人間身体がそれらに太刀打ちできないという意味では、いずれも暴力の一種である。だが、いずれにせよ、それらに必然性や正当性が与えられている場合、そこに国家が形成されていると見なければならない。つまり、万が一、「火炎ビンを投げた」側に正当性が与えられた場合、彼らの側に、国家が形成されるのである。暴力が隠蔽されるためには、非対称的な力の格差を正当化する《関係》がなければならない。つまり、暴力以前に、つねに‐すでに、こうした《関係》が存在しているのであり、この《関係》こそが、国家を成立させている、と考えるべきなのである。

国家の「起源」に暴力があったかなかったかを議論するよりは、国家による権力の行使を暴力として把握することの方が、はるかに重要な意味をもっている。そうした把握自体が、《関係》にまで昇華され、結果として骨抜きにされた《力》を、もとのよりよき《力》の領野に連れ戻すからである。だが、そうした暴力の批判的な把握が、暴力そのものを窒息させてしまっては、じつは意味がないのだ。ドゥルーズ=ガタリが言うように、いたるところに暴力は存在しているからであり、要するに力の格差はつねに生じているからである。問題にすべきは、暴力に対してときに付与される正当性の方である。なにゆえ、あの暴力は不当であり、したがって権力にはなりえず、他方、この暴力は正当であり、したがって権力になりうる、といった事態が生じてしまうのか。あるいは、この、かくも不当な暴力を、いかにして振るうべきなのか。……

【註】

  • (1) 柄谷行人『トランスクリティーク』岩波書店、萱野稔人『国家とはなにか』以文社など。とくに後者はドゥルーズ=ガタリのいう「ストック」の意味を取り違えている。当たり前のことだが、「徴収」と「ストック」とは同一視されてはならない。「徴収」はむしろ「フロー」の一種である。ドゥルーズ=ガタリならば、《暴力をストックしている》、などとは絶対に言わない。暴力は、振るわれねばならないからである。厳密には、《力》であるのは「フロー」だけなのであり、またひとたび《力》がストックされるや、それは《関係》となり、ある意味で言えば、とりわけフーコーの指摘する《権力関係》となる。ドゥルーズ=ガタリは、国家の起源に「ストック」を見いだしているが、こうしたストックを、あえて《力》で表現したいならば、《暴力》ではなくて、もっと強くいえば、《暴力》に反して、《権力》という語を選ぶべきなのである。

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