欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を […]
「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐 […]
ジャック・デリダは言う。 比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味(こう言ってよければ《意味されるも […]
わたしはプラトンの『パイドン』を、若い頃から愛していた。この感動的なテクストは、次のように始まる。処刑が決まったものの、ちょうどデロス島で行なわれる祭礼と重なったために、執行が延期になり、ソクラテスは牢獄でいくらか余命を […]
わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じて […]
ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つま […]
フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」=感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そ […]
芸術は、いったい、なにを行なっているのだろうか。プラトンの言うような、自然の模倣? それとも、アリストテレスの言うような自然に《対して》虚構を作りあげること? どちらも、それほど正しくない。それに、この問いにかかわってい […]
いつしか、わたしは不思議な感覚に囚われるようになった。それは、歴史よりも、文学のほうが、大きな概念なのではないか、ということだ。なぜ、ホメロスは、歴史家ではなく、文学者と呼ばれるのだろうか。『イリアス』は、なぜ、歴史書で […]
「わたしは理論的に小説を書こうと思っているし、君もそうすべきだよ」といったのは夏目漱石で、彼はわたしの胸の上に乗って、両腕を押さえつけた。わたしはもがきながら、「それでは自由がないじゃないか!」と言ったかと思うと、それで […]
かつて、プラトンを批判すれば、なにがしかのものを言ったことになった時代があった。プラトンのようなイデア論を批判すれば、それだけで、形而上学を哂う悦ばしき唯物論になりえたのだ。たとえば、柄谷行人の『隠喩としての建築』という […]
わたしたちが普段何気なく、そして区別しつつ用いている言葉に「想像力」と「記憶力」とがある。いずれにしても、不在のものの現前という意味では同じものであろう。いまここにないものを現前させる、そうした力こそが、この二つに割り当 […]
《戦争》について、少し考えておきたい。書きながら考えるので、おそらくまともな文章にならないことを断っておく。 さて、まずこの場合、問わねばならないのは、“《戦争》とは何か”、という問いがそもそも立てられるか否かである。一 […]
この書は、もとは一九八〇年代初めに出て(その後著者の意志で絶版、原型は『内省と遡行』に見ることができる)、一九九二年にArchitecture as a metaphorとして英訳されたものに大幅に加筆され“定本”として […]
プラトンは、弁論術――あるいは語ることと書くことについて述べた著作、『パイドロス』において、ソクラテスにこう語らせている。 ソクラテス このぼくはね、パイドロス、話したり考えたりする力を得るために、この分割と総合という方 […]
《節制》(ソフロシュネー)は、生の過剰を《肯定》したニーチェが批判していたように、悪しきプラトン主義の産物なのであろうか。否、けっしてそうではない。おそらく、この考えは、時代とともに、あるいは政治とともにある。過去にウェ […]