回転せるプラトン――柄谷行人『隠喩としての建築』

review
2004.02.19

この書は、もとは一九八〇年代初めに出て(その後著者の意志で絶版、原型は『内省と遡行』に見ることができる)、一九九二年にArchitecture as a metaphorとして英訳されたものに大幅に加筆され“定本”として再販されたものである。本書は三部構成となり、第一部は「制作making」、第二部は「生成becoming」、第三部は「教えることと売ることteaching & selling」である。おおまかに粗筋をいえば、「制作」の視座をゲーデルの不完全性定理によって極限まで形式化することで、「生成」の視座を見出す。だが、それが「制作」の残余としてしか見出されえないものであることを指摘し、またそれらを、俯瞰的な立場からヘーゲル的な弁証法によって統合する立場を取ることなく揚棄し、一挙に――まさに跳躍的に――、「教えることと売ること」という、きわめてセキュラー(世俗的)な場所に降りることによって、ウィトゲンシュタインの「外国人」あるいは、カントの「物自体」として、「他者」の存在を語る、という流れを描いている。重要な役割を果たすのは、批判対象となっているプラトンである。加筆箇所のうちの大部を占めるプラトンへの言及箇所が、わたしを刺激した。この書物にあるのは、私見によれば、真のプラトニズム――プラトンを真の意味で批判することで得られるようなもの――である。

近代以降、プラトンはいつも批判対象であり――その代表者にニーチェをあげることができる――、その姿勢は柄谷にも引き継がれている。しかし、わたしはそうしたアンチ・プラトン的視座をとらない。たとえば、柄谷が、“隠喩としての建築”を称揚した者としてプラトンを語ったとしても、われわれは、すぐさま『国家』におけるアデイマントスのソクラテスに対する言葉を想起する。《「けだし」と彼は言った、「比喩を通じて語ることには、不馴れなあなたですのにね!」(『国家』(下)藤沢令夫訳、岩波書店、27ページ)》。

プラトンの哲学とはいかなるものか。ドゥルーズの言うように、プラトンが重視した《対話(弁証法)》は「問題」的なものであり、その一方にある《イデア》は、数学的なもの、いわば「問題(問い)」に対する「解(答え)」にあたるものである。プラトンは有名な洞窟の比喩によって《イデア》を語ったが、けっしてそこで終ったわけではない(下の引用の「ぼく」はソクラテスである)。

(ソクラテス)「彼らが上昇して〈善〉[のイデア]をじゅうぶんに見たのちは、彼らに対して、現在許されているようなことをけっして許さないということ」
(グラウコン)「どのようなことを許さないと言われるのですか?」
「そのまま上方に留まることをだ」とぼくは言った、「そして、もう一度前の囚人仲間のところへ降りて来ようとせず、彼らとともにその苦労と名誉を――それがつまらぬものであれ、ましなものであれ――分かち合おうとはしないということをだ」(『国家』(下)、107ページ)

〈善〉の《イデア》に至るために必要な学問として、幾何学や音楽、天文学も含めて諸々の数学(《イデア》)をあげた後、それらすべてを「前奏曲」にすぎないとして、次のように語っている箇所も、ほぼ同じことを語っている部分として引ける。

「それでは、グラウコンよ」とぼくは言った、「いまやようやく、ここに本曲そのものが登場することになるのだ。この本曲を演奏するのは、哲学的な対話・問答にほかならない。それは思惟によって知られるものであるけれども、比喩的にこれを再現しようと思えば、先に述べた視覚の機能に比せられてよいだろう。すなわち、すでにして実物としての動物のほうへ、天空の星々のほうへ、そして最後には太陽そのもののほうへと、目を向けようとつとめるわれわれが語った、あの段階がそれである。ちょうどそれと同じように、ひとが哲学的な対話・問答によって、いかなる感覚にも頼ることなく、ただ言論を用いて、まさにそれぞれであるところのものへと前進しようとつとめ、最後にまさに〈善〉であるところのものそれ自体を、知性的思惟のはたらきだけによって直接把握するまで退転することがないならば、そのときひとは、思惟される世界の究極に至ることになる。それは、先の場合にわれわれの比喩で語られた人が、目に見える世界の究極に至るのと対応するわけだ」
「ええ、まったくそのとおりです」と彼は言った。
「ではどうかね、このような行程を、君は哲学的問答法(ディアレクティケー)と呼ばないだろうか?」(『国家』下、141-2ページ)

こうしてソクラテスは、《イデア》の上位に《対話(弁証法)》を置くことになる。だが、こうした《対話(弁証法)》を、最終的な相互理解が予定された、すなわちヘーゲル的な弁証法的合一と混同するのは、たぶん誤りである。なぜなら、弁証法のはてに理想を置くヘーゲルとは、順路がまったく逆だからである(むしろ、ヘーゲルの弁証法を逆立ちしていると非難したマルクスに対応している)。たしかに、柄谷が言うように、プラトンの語る《対話(弁証法)》が、ヘーゲル的な弁証法と同じであるならば、次のように語ることもできただろう。「プラトンの対話は、対話として書かれているだけであって、基本的にモノローグなのである」(150ページ)。だが、実際のところ、ソクラテスと会話を交わす者たちは、例外なく“イエス”と肯いて別のことをする者たちでしかない。たとえばグラウコンは、「そのとおりです」と語った舌の根の乾かぬうちに、こう言っている。

「さあ、それでは話してください。哲学的な対話・問答がはたす機能とは、どのような性格のものなのでしょうか。それはいったい、どのような種類に分かれているのでしょうか。またそれが踏むべき道には、どのようなものがあるのでしょうか。――というのは、どうやらそれらの道こそはすでに、かの目標そのものへと通じる道なのであって、そこへ到着したならば、いわば、歩みを止めてひと息つける旅路の終点となるもののようですからね」(『国家』下、143-4ページ)

グラウコンのこの発言は、いままで頷いてきたにもかかわらず、ソクラテスの言うことをなにも理解していないに等しいことを暴露するものである。プラトンの対話篇すべてに言えることだが、ソクラテスの対話相手は、つねに、ソクラテスの発言にそのつど現れる論理に従って、イエスと肯いているだけなのであって、ソクラテスが“言外に――別の言い方をすれば、比喩としてではなく、善きパロールとして――言おうとしていること”については、ほとんどの場合、耳を閉ざしている。さらに引用をつづけよう。

「親愛なるグラウコン」とぼくは言った、「これ以上ついてくることは、君にはできないかもしれないね。といって、ぼくのほうにその熱意がないというようなことは、全然ないのだが。それにまた、君に示されるのは、もはやこれまでのように、われわれの言おうとする事柄の似象(比喩)ではなくて、直接真実そのものとなるだろう――少なくとも、ぼくにあらわれたかぎりでのね。ぼくがその真実をほんとうに正しく見ているかどうかということまで、確言することはできないが、しかし何かそのようなものを見なければならぬということだけは、つよく主張してしかるべきだ。そうだろう?」
「ええ、たしかに」(『国家』下、144ページ)

この「ええ、たしかに」も、流れから言って、ソクラテスが言うことを真に理解したうえでの言葉とは到底思えない。ソクラテスは、「ぼくにあらわれたかぎりでの」という言葉で、謙遜しているわけでもなければ、「ぼくにあらわれたかぎりで」しかない真実を、真実としてしまう、矛盾に満ちた答え方をしているのでもない。むしろ、逆に、きわめて厳密に語っている、というほかない。すなわち、《対話(弁証法)》とは、いま、ソクラテスとグラウコンのあいだで《作られている》、自分の会話が正確には理解されない現実の対話そのものだからである。だから、ソクラテスの言葉であるかぎりにおいて、それは、ソクラテスの言葉でしかないとしても、《対話(弁証法)》の上で交わされた言葉という、比喩ではない、真実なのである。

柄谷が規則を共有しない他者の例としてなにをあげているかを見てみよう。たとえば、グレゴリー・ベイトソンが分裂病の症例としてあげる患者や、ポール・ド・マンがあげる夫婦は、言葉を受け取りながら、別の行為で(応答も含めて)それに応えるものであり、ウィトゲンシュタインのあげる外国人の例もまた、「石版をもってこい!」に対して、「自分の言語では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない」外国人なのであって、けっして、“NO”や“わからない”で応える者ではない。つまり、暗黙に、彼らは相手の言葉を少なくとも成立した命題として受け取っているのである。要するに、“イエス”や、“わかりました”で応える者こそが、他者なのである(教師や生徒をやったことがあるひとならわかるだろうが、たいてい、生徒はわからなくても“わかりました”、と言うものだ)。

さらに言えば、柄谷が数学的な形式化の彼岸に見出した「他者」は、教えることによってはじめて生じる「他者」であるが、プラトンの著作が、まさに、歴史的に言って、彼が《哲学者=王》としてシラクサで失敗した後に創設したアカデメイアのテクストとして作られたものであり、全編が、結局のところ、教えることについて書かれたものである。数学によって極限まで形式化され、磨き上げられた《イデア》は、しかし、仮設に過ぎない。プラトンは言う。《哲学的問答法の探求の行程だけが、そうした仮設をつぎつぎと破棄しながら、始原(第一原理)そのものに至り、それによって自分を完全に確実なものとする、という行き方をするのだ(146ページ)》。したがって、たしかに対話の相手であるグラウコンが「ついてくること」ができなかったとしても、――というよりも、プラトンの著作中、だれひとりとして、ソクラテスについてきた相手はいない――そのこと自体がひとつの真実であり、そして始原なのだ。《イデア》は、《対話(弁証法)》のうちに含まれているとしても、けっして始原ではないし、言ってみれば、「答え」にすぎない。重要なことは、「問い」としての《対話(弁証法)》なのであり、その「探求の行程」だからである。柄谷も引いているように、プラトンは、別のところでソクラテスにこうも言わせている。《メノン、いいかね。私は――何一つ教えてはいない。私のしていることは問うことだけだ》。「教えること」や「学ぶ」ことが本来的にありえず、そこには「想起」のみがある、とソクラテスが言うとしても、それは、カントが「構想力」によって、物自体と感性をつなげざるをえなかったのと同じ困難な問題がある。柄谷の用語に即して言えば、プラトンは、こう言っているのだ。教えることや学ぶこと、それは、「命がけの飛躍」(マルクス)、「暗黒の中における跳躍」(ウィトゲンシュタイン)でしかありえない、と。

おそらく、歴史的に近代に入って、それもフッサールが述べた「数学の危機」の時代に、プラトンは、再発見されたのである。カントが非ユークリッド幾何学について知っていた可能性を語るならば、プラトンが、ピュタゴラス学派によって、すでにユークリッドの(という言い方は歴史的には転倒しているが、「第五公理」自体はユークリッドの以前からあったものである)「第五公理」が疑われていたことを知っていたと語ることはできないだろうか。その意味で言えば、われわれは次のような物語を描くことができるはずである。つまり、《真》ではなく、《無矛盾》でありさえすればよい、とするヒルベルトの形式主義が、プラトンの公理主義の直系の延長線上にあり、そして、少なくともシラクサで《哲学者=王》として惨めな失敗をした後のプラトンが《イデア》の上位に《対話(弁証法)》を置いたことは、まさに、ウィトゲンシュタインが、『哲学探究』における転回の後に、ラッセルの論理学を外側から攻撃しようとしたことに対応しているのである。言うなれば、プラトンは、一九世紀以降に(正確にはカント以降)、まさに同時代人として、復活したのである。

柄谷は、『探求I』において、プラトンの《対話(弁証法)》を批判し、ソクラテスのイロニーを評価するという、転倒した解釈を示したが、このこと自体が、じつはプラトンの可能性の中心を語っていたのではないか。あるいは、柄谷が、無理数(たとえば、Xの二乗=2、つまりX=ルート2)を、自己言及的なもの(X=2/X、すなわち、Xを知るために、Xが必要となる)として正当にも読み替え(84ページ)、たとえばピュタゴラス学派が、無理数を語ること(=自己言及)を禁止したこと、その禁止によって「建築」が可能になることを述べるとき、われわれは、プラトンの『テアイテトス』を思い出すはずだ。この奇怪な書物においてプラトンは、テオドロスとテアイテトスに無理数を証明させた後、ソクラテスに、自身が知を出産させる産婆であると語らせる。これは、ソクラテスの《対話(弁証法)》が、まさに無理数そのものとしてあることを示している。すなわち、ソクラテスの産婆術とは、X=2/Xであるような(対話者Xから、対話者の分身(差異)としての知2/Xを産ませるような)、自己言及によって知へと至る、きわめて刺激的な試みなのである。そこでは、柄谷の言うような「大団円」、弁証法的合一などはありえない。ただ、知とは、それとしては語りえぬもの――しかし、《隠喩》としてではなく、いまここでまさに交わされている対話そのものとして、開かれたまま提示されるばかりである(これについてはまたどこかで述べねばなるまい)。もはや、われわれには、ここで、このように語ることが許されるだろう。すなわち、デカルトやカントやマルクスに対して、あれだけの読みを披瀝する著者が、なぜ、プラトンに対してはそうしないのか、と。

プラトンにかんして、長々と語ってきた。通俗的プラトンの転倒、あるいは《イデア》と《対話(弁証法)》のあいだで回転せるプラトン、それは、おそらく、われわれの世代に残された課題である。プラトンの転倒は、たんに哲学史上の功績(ワードプレイ)を意味しない。それは、おそらくは著者の後にも生きねばならない、われわれの課題として残されている、弁証法的なものの、真の転倒――それはすなわち、語りえぬ者との対話を実現する技術(「建築術」)にほかならない――を含むのである。

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