パイドロス

philosophy
2002.07.10

プラトンは、弁論術――あるいは語ることと書くことについて述べた著作、『パイドロス』において、ソクラテスにこう語らせている。

ソクラテス このぼくはね、パイドロス、話したり考えたりする力を得るために、この分割と総合という方法を、ぼく自身が恋人のように大切にしているばかりでなく、また誰かほかの人が、ものごとをその自然本来の性格にしたがって、これを一つになる方向へ眺めるとともに、また多に分れるところまで見るだけの能力をもっていると思ったならば、ぼくはその人のあとを追うのだ、「神のみあとを慕うごとく、その足跡をたどりつつ」ね。さらにまた、ぼくは、このことを実行できる人たちのことを、正しい呼び方かどうかは神のみが知りたもうところとして、とにかくこれまでのところ、ディアレクティケー(対話)を身につけた者と呼んでいるのだ。(266B、『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫)

この前段で、ソクラテスは、弁論術が、それが正しくも見え、同時に不正でも見えるようなもの、つまり異論の多いもの――たとえば、害悪をもたらすと同時に最善でもあるような「恋(エロス)」――に関して行なわれるものであることを示す。また、異論の多いものとは、「互いに異なるところの多いもの」ではなく、「少ししか違わないもの」であるともいう。今日的に言えば、前者は種的差異ということになろうし、後者は、ドゥルーズが言う意味でのたんなる《差異》ということになろう。さらに、このようにものごとを両義的にみせるもの、すなわち狂気それ自体を、ソクラテスはふたつに分ける。ひとつは、「人間的な病によって生じる」、「われわれの中にある本来一つの種類のもの」であるような「心の錯乱」がもたらす狂気。もうひとつは、「規則にはまった慣習的な事柄をすっかり変えてしまうことによって生じる」、「神に憑かれて」もたらされるような狂気。したがって、この狂気も両義的であり、ソクラテスはさらにこの神的な狂気を四つに分割する。アポロン的な予言の霊感。ディオニュソス的な秘儀の霊感。ムゥサの神々による詩的霊感。そして、ソクラテスがもっとも善きものであるとする、アプロディテとエロスがつかさどる恋の狂気。

このようにして、できうるかぎりの分割――すなわち他なるものを見いだしそれを区別する試みと、それを総合するというやり方――すなわち微積分――こそが、対話である、と、ソクラテスは言うのだが、聞き手のパイドロスは、この言い方に満足せず、「ほのめかし法」だとか、「婉曲賞讃法」だとか、「譬喩的話法」だとか、そのような弁論術を期待する。もちろん、ソクラテスは、そのような弁論術を、予備的に習っておかねばならないことであって、弁論術そのものに関することではない、と言って否定する。ただし、全否定するわけではなく、このような弁論術を語る者は、「真実らしきものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを見ぬいた人たち(267A)」であると言う。そうして細目的な弁論術をとりあえず括弧に入れて、「真実」を語るということが、どのようなものであるかを懇々と言って聞かせる。

ソクラテス そもそも、どのようなものにせよ、あるものの本性について考察するには、次のようなやり方によるべきではなかろうか。まず第一、ぼくたちがあるものに関して、自分でも技術を身につけ、また他人を技術家にしたてるだけの能力をもちたいとのぞむなら、技術を向けるべきその対象が、単一なものか、それとも多種類なものかをしらべること、つぎに、もしその対象が単一のものなら、そのものがもっている機能をしらべてみること。すなわち、それは本来、能動的には何に対してどのような作用をあたえ、受動的には何からどのような作用を受けとるような性質のものであるかを、しらべるのである。またもし、その対象が多種類のものならば、その種類を数え上げ、しかるのち、そのひとつひとつの種類について、単一な種類の場合にやったのと同じことを、つまり、それが本来何によってどのような作用をあたえ、あるいは何からどのような作用を受けるような性質のものかを、見なければならない。
パイドロス おそらく、ソクラテス、そうかもしれません。
ソクラテス いや少なくとも、こういった手順をふまない方法などというものは、盲人の歩みのごとし、といってよいだろう。だが、何ものかを、いやしくも技術によって追究しようとする者が、めくらにたとえられたり、つんぼにたとえられたりするようなことは、むろん、あってはならない。明らかに、もしひとが技術にしたがって誰かに弁論を授けようとするならば、その弁論が適用されるべき対象の本性がいかなるものであるかを、正確に教え示すべきである。ところで、その対象とは何かといえば、魂にほかならないであろう。
パイドロス たしかに。
ソクラテス だから、彼の努力のすべては、この魂の研究に向けられるのではないか。(270D-271A)

だが、ソクラテスは、前段でこう語っていた。「少なくともこのぼくは、話すことの技術なんか、何ひとつ身につけてはいない(262C-D)」と(パイドロスはこれを謙遜にとる)。そして、このことによって、以下の言葉は重要な意味を帯びてくる。以下は、ソクラテスが、弁論家たちの主張するところを、パイドロスに伝聞しているにすぎない。だが、伝聞であるということが、それゆえにまた重要な意義をもつ。

ソクラテス それでは、彼らの主張するところはこうだ。――弁論に関するこれらの事柄を、そんなふうに、もったいをつけて取りあつかったり、まわりくどい話をして、高いとところへもっていく必要はさらにない。なぜならば、…(略)…まったくのところ、弁論の力をじゅうぶんに身につけようとする者は、何が正しい事柄であり善い事柄であるかということに関して、あるいは、どういう人間が――生まれつきにせよ教育の結果にせよ――正しくまた善い人間であるかということに関して、その真実にあずかる必要は、少しもないのだから。じじつ、裁判の法廷において、こういった事柄の真実を気にかける人なんか、ひとりだっておりはしない。そこでは、人を信じさせる力をもったものこそが、問題なのだ。人を信じさせる力をもったもの、それは、真実らしくみえるもののことである。技術によって語ろうとするものは、ほかならぬこの、真実らしくみえるところのものに専心しなければならぬ。すなわち、よしんば実際に行なわれたことであっても、もしそれが真実とは思えないような仕方で行われたとしたならば、それをありのままに述べてはいけない場合さえ、しばしばあるのであって、真実らしくみえるような事柄におきかえなければならないのだ。(272D-E)

また、これに付け加えて、「「真実らしくみえるもの」とは、多数の者にそうだと思われるもの(273B)」であるという。もちろん、この明らかに誤解を生みそうな発言に対して、次のような言葉を付け加えるのを忘れてはいない。「「真実らしくみえるもの」とは、それが真実のものに似ているからこそ、多数の者に真実らしくみえる」のであり、「そのような真実への類似を最もよく発見することのできるのは、いつの場合でも、真実そのものを知っている者なのだ」ということを。だが、もはや、ここまでくれば明らかなのだが、この『パイドロス』の通俗的な理解、言い換えれば、形而上学的な読み方、すなわち、ソクラテスは、「真実そのものの把握なしには真実らしく語ることさえ本来的に不可能であることを立証し」ているのではないし、語ることこそが、魂そのものをあらわす、というような音声中心主義的な言説を語っているのでもない。というよりは、そのような読みは、きわめて浅薄であるというほかなく、むしろ、プラトニックな西洋形而上学的な読みが、プラトンを西洋形而上学者に仕立てているのである。真実を語る技術をもっていないと自ら語るソクラテスが強調しているのは、たとえ、真実そのものを知っていたとしても、それを語るときには「類似」において語るほかないのであり、また、「少ししか違わないもの」、もっといえば、「少し違っているもの」について/として語るほかないということである。だからこそ、彼は、弁論術を、「言論による一種の魂の誘導(261A)」と呼ぶのである。彼が、ディアレクティケー(対話)という言葉で述べているのは、ひとつのものに対してさえ、他なるもの、すなわち、狂気――もちろん、それは、自己から見られる人間的な錯乱と、神によってもたらされる慣習的なものをすっかり変えてしまうような肯定的な狂気とがある――を見いだしてそれを分割し、その分割を保持したまま綜合する、ということであり、言い換えれば、知ることのできる部分と、そうできない部分とにわけ、それを受け入れるということである。彼は、かの「無知の知」を言っているのである。

したがって、ソクラテスが、もし、書くことよりも語ることを賞讃しているとすれば、そのことによって、弁論術の対象である魂そのものをずらしつつ、かつ、その魂を語ることにおいて――言い換えれば、差異と反復において、賞讃しているのである。逆に言えば、彼らが書くことを否定するのは、ものを思い出すという行為にまったくずれが生じないかぎりにおいて否定するのである。したがって、書くことは、「記憶の秘訣」ではなく、「想起の秘訣」となる。ソクラテスによれば、ずれの生じない想起こそが、“忘却”なのである。要は、彼ら自身が提示する“イデア”から、いかに肯定的に逸脱できるか、なのである。そこに、通俗的なプラトニズムを見いだすことは不可能である。

ソクラテスは、最後に、「真実らしくみえるもの」を語ることこそが、弁論の技術の“秘訣”であるという。この“秘訣”は、ジャック・デリダが的確に指摘しているように、ギリシア語で、パルマコン、すなわち“薬”であるが、この語は、同時に“毒”を意味する。この両義性は、残念ながら、英語によろうが、ドイツ語によろうが、日本語によろうが、どのような翻訳語によっても見いだされない。ソクラテスは、最後まで、この両義的な態度を崩していないのである。

こうして、プラトンの対話篇は、閉じられることなく終わる。プラトン―ソクラテスの並外れて戦略的な書物は、未来永劫、効力をもちつづけるだろう。

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