模倣か虚構か

philosophy
2008.12.24

芸術は、いったい、なにを行なっているのだろうか。プラトンの言うような、自然の模倣? それとも、アリストテレスの言うような自然に《対して》虚構を作りあげること?

どちらも、それほど正しくない。それに、この問いにかかわっているかぎり、よい芸術はなかなか生まれてこない。

芸術における真のリアリティとは、結局、自然との差異において現れるものである。逆に言えば、本物とまったく同じものを作りあげることが、芸術なのではない。その観点からすると、模倣論よりも虚構論の方が、芸術にふさわしいものに思えてくる。だが、後述するように、結局は、虚構論も問題にならないだろう。虚構論は、当然、その一方にそれと対立する真理の世界を想定せざるをえない。だとすると、われわれの知りうる世界そのものが、ヘーゲル的な弁証法を前提しないかぎり、まったくの虚構であり、そこでは、芸術とその他の営みとを区別することが不可能になる。われわれの営み、それが人間的な営為であるかぎり、虚構であるとするなら、虚構論を、芸術論に限定する理由はどこにもない。それでは芸術論としては無意味であろう。

視点をすこし変えて、もう一度説明しよう。われわれの認識する世界が虚構かもしれない、というのは誰しもが考えることだ。だからひとは知りもしない《物自体》を仮構して当座の満足を得る。それは、われわれの知りえない起源=自然を仮構する、ということでもある。こうした観点からすると、虚構論に食指が動くのはもっともである。

しかし、本来、われわれが仮構する物自体もまた、われわれが便宜上、適当に生み出したものにすぎない以上、認識と物自体とは、対立すると言っても、たんにひとの精神の上で並列されるふたつのよく似た経験というほかない。対立するとしても、結局は、精神の上で起こる一連の経験なのである。したがって、人間が認識できる世界にかぎったとしても、その世界が完全無欠の虚構であるとすれば、虚構論といっても、それは、虚構としての表象の上に、さらなる虚構としての表象を重ね合わせることにすぎないし、また逆に、模倣論といっても、それは、模倣としての表象に模倣としての表象を重ねることでしかなくなってしまう。いずれにせよ、実体が必要ない以上、そもそも模倣も虚構もないのである。

こうなると、模倣論とか虚構論とか言っても、無意味である。むしろ、芸術の欲望が《次》の表象を求めるという、当のそのことにおいて、芸術は判断されるべきである。すなわち、この芸術は、いったい何を生み出そうとしているのか。どのような表象を意志しているのか。

子供はそのことをよく知っている。美術館に飾ってある優れた絵画をみて、彼は、「本物みたいだ」と感じる。いまにも、絵画から、美しい女性が飛び出してくるのではないか、そんな風にどきどきする。そこで、野暮な大人がこう言ったとする。「たしかに、本物みたいだねえ(あれは、絵なんだよ。作り物なんだよ)」。だが、《子供はそんなことはとっくの昔に承知しているのだ》。真理の直前で立ち止まる絵画が、まさに直前に立っているからこそ、彼は絵画を真理だと感じているのである。「本物《である》かのようだ」ではない。「本物《になる》かもしれない」なのだ。かの子供は、この二つの文章の違いを、明敏に感じ取っている。

その点でいうなら、アニメやマンガの絵に性的な欲望を掻き立てられる、というのは、別に不思議なことでもなんでもない。それらはおそらく、本当の人間よりも、人間《になる》ことを欲望しているからだ。それらは、芸術の出発点でさえありうる。ただし、虚構という言い方で、それらがもっている現実との接点を切り離してしまうなら、なんの意味もなくなってしまう。虚構論は、人間になろうとする欲望を断ち切り、暗に《なれない》と言う。そのことによって、ついにそれらは本来もっている力を失ってしまう。

わたしは、芸術について述べた。この話の恐るべき点は、じつは、歴史にも当てはまってしまうことである。カントが言うように、われわれのあずかり知らない物自体を認めるとしても、その一方にある人間的な世界のすべてが認識論上の虚構なのだとすれば、歴史とは、とどのつまり、虚構ではないか。そうした恐るべき問いが立てられてしまう。要するに、カント=ゲーデル風にいうなら、われわれは、嘘と本当とを、ついに区別できないのである。

区別できない、とは、一体どういうことか。見方を変えれば、文学と歴史とが、区別できないということである。虚構と真理とを裁断する規準を、われわれは持ち得ないのだ(この時点で、じつは、上記の虚構論は可能性を失う。一見すればかぎりなく芸術にふさわしい虚構論は、その意義を失ってしまう。同じものを再現しようとするものであるかぎり、模倣論に満足することはできないとしても、模倣という語が、実体の力を借りつつも、それ自体で価値をもつかぎり、模倣論にはまだ可能性がある)。

歴史と文学とを区別するのが無意味となるような空間、ここにおいて、はじめて文学は、そして芸術は真に駆動しはじめる。そうした芸術は、同時に、政治的な行為を促す革命論でもあるはずである。虚構論が跋扈する今日、われわれは、まだスタートラインにさえ立っていない。芸術も革命も、まだまだ遠い。……

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