懐疑と数学、存在についての私論

「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐 […]

2010.05.15
長谷川等伯

没後四百年を記念して京都国立博物館(および東京国立博物館)で長谷川等伯展が開催されている。なんとか最終日に足を運ぶことができた。京都にはあちこちに等伯があるが、一カ所でこれだけまとめて作品をみると、さすがに圧巻というか目 […]

2010.05.10
基地問題、あるいは文学とリプレゼンテーション

マスメディアのあいだであふれている言葉が、ほとんどすべてリプレゼンテーションであることは容易に察しがつく。彼らには、ほんとうにいいたいことは別にあって、ずっと「意味」を隠しているのだ。デリダがいうように、この種の言葉は、 […]

2010.05.07
文体について――蛇とQ・E・D(ラフ)

小林秀雄は、かつて「どんなに正確な論理的表現も、厳密に言へば畢竟文体の問題に過ぎない」(『Xへの手紙』)と語り、文学の本質を文体に求めていた。当然、芸術の本質は「フォーム(姿)」(「美を求める心」)にあると考えられた。文 […]

2010.05.06
第2回「人文学の正午」研究会のお知らせ

来たる5月22日(土曜日)、13:00より京都大学にて第2回人文学の正午研究会が開催されます。第1回は「人文学とはなにか?」でしたが、第2回は「色彩論」の予定です。色彩はひとにいかに影響を与えてきたか。歴史において、ある […]

2010.05.05
箴言

新しい世代の人間は、なにかを捨てながら進むと、ニーチェは言っていた。捨てるからには一度は拾わねばならない。しかしやはりそれは捨てられねばならない。われわれがそれを拾うとき、不思議なことに、じつはわれわれ自身が歴史に回収さ […]

2010.04.30
自己の批判

独断論や決断主義の批判が懐疑論や相対主義を生むのであってはならない。結局、ひとは独断を迫られる。ゲーデルやピュロンの死をみれば、無限の懐疑がいかに衰弱を生むかわかるはずである。 自分ひとりいい気になっているといわれたこと […]

2010.04.29
言葉について/自然

文学や歴史はぼくらとは違う時間を生きている。文字といっても生きている。音声中心主義を批判するひとたちは、死んだ文字を相手にする。だけど、筋金入りの音声中心主義であるぼくらは、文字も声と同様に生きていると考える。それは、ソ […]

2010.04.27
「人文学の正午」研究会公式ウェブサイト公開

人文学の正午研究会の公式ウェブサイトが公開されました。アドレスはhttp://www.fragment-group.com/shogoです。五月末に第2回研究会が京都大学にて開催されます。お近くの方はもちろん、遠くの方も […]

2010.04.27
政治と芸術

知識人としては失格かもしれないが、わたしは素朴な人間で、依然として小沢‐鳩山体制には――とりわけ外交の点で――期待している(とはいえ前回の選挙でどこに投票したのかは秘密だし、今後民主党内でありうるほかの体制にはほとんど期 […]

2010.04.24
書評会のお知らせ

4月25日(日)、13:30(13:00開場)より京都府立大学合同講義棟にて『精神の歴史』書評会(洛北史学会・日本史の方法研究会共催)が行われます。 評者に梅田径氏(早稲田大学)・小路田泰直氏(奈良女子大学)を予定してい […]

2010.04.18
第1回「人文学の正午」研究会終了

4月17日午後1時より第1回「人文学の正午」研究会が京都大学にて開催され、盛況のうちに幕を閉じました。第1回の報告者は田中希生「人文学とはなにか?」でした。第2回は5月末に開催されます(「色彩論」の予定)。多数の参加者を […]

2010.04.18
湯川秀樹と特殊領域にかかわる知識人

量子力学のことが知りたいと思って、京都大学は基礎物理学研究所の周りをうろついていると、なぜか湯川秀樹が残した膨大な資料(そこには、一九三〇年代に書かれた中間子論の自筆の原稿が含まれるばかりでなく、バートランド・ラッセルや […]

2010.04.13
第1回「人文学の正午」研究会開催

4月17日(土)、13:00より、第1回「人文学の正午」研究会が京都大学(文学部新館第四演習室)にて開催されます。多数の参加者をお待ちしております。近代以降、もうずっと危機を迎えている人文学の未来をとことん語り合いましょ […]

2010.04.12
二つの言語論(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ3)

ジャック・デリダは言う。 比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味(こう言ってよければ《意味されるも […]

2010.04.11
オクシデンタリズム(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ2)

ユークリッド(エウクレイデス)の第五公準、いわゆる平行線の公準は破られて久しい。この事態を文学的に翻訳するなら、それは、〈平行線は交わる〉ということである。第五公準とは次のようなものであった。 二つの直線が第三の直線と相 […]

2010.03.20
志賀直哉の墓

最近は本当に忙しい。定職があるわけでもなく、ただただ時間を労働に浪費する。これでは本当の仕事はなかなかできない。われわれのような貧しい立場の人間は、この社会で生きていくのは難しいに違いない。「違いない」と人ごとのようにい […]

2010.03.08
コーラー

わたしはプラトンの『パイドン』を、若い頃から愛していた。この感動的なテクストは、次のように始まる。処刑が決まったものの、ちょうどデロス島で行なわれる祭礼と重なったために、執行が延期になり、ソクラテスは牢獄でいくらか余命を […]

2010.03.04
権力への意志

文学は批評的なものであるという言葉は、戦後によく聞かれるようになった。それは間違いではないが、正しくもない。たとえば、ハイフェッツの “Criticism does not disturb me, for I […]

2010.02.14
忘却の系譜学

ニーチェは、『楽しい科学』のなかで、「忘却の音楽」について語っていた。たしか、彼はそこで、芸術を二つに分類していたはずだ(不確かな書きかたをするのは、いま手許にこの本がないから。今月二度目の満月の光を浴びながら、これを書 […]

2010.01.30
記憶と忘却の娘としての《技術》(スティグレールによせて)

わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じて […]

2010.01.25
ポストモダニストたち(2)――ヴァルター・ベンヤミン

ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つま […]

2010.01.23
ポストモダニストたち(1)――ミシェル・フーコー

わたしの愛するポストモダニストたちがいる(この言葉を、あえてよい意味で使おう)。年齢順にいえば、ニーチェ、ベンヤミン、ドゥルーズ、そしてフーコーである。ホメロスやプラトン、デカルトやゲーテも愛しているが、彼らには途方もな […]

2010.01.18
言文一致論(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ)

ハイゼンベルク(1)の不確定性原理Uncertainty principleは奇妙なものである。この原理を生活レベルに(つまりあえてマクロレベルに)翻訳すればこうなる。われわれがグラスなどの対象をみるとき、目から発せられ […]

2009.12.25
文芸誌フラグメント創刊

文芸誌フラグメントが刊行されました。新しいウェブサイトがhttp://www.fragment-group.comにできています。 人文学の再生に向けて、新たな一歩のためには、やはり、文学・哲学・歴史学の三つの核が必要で […]

2009.12.18
文芸雑誌『フラグメント』編集中

現在、文芸雑誌『フラグメント』の編集が順調にすすんでいます。今月中の刊行に向けて、田中希生もがんばっています。小説を書いた、という情報も入ってきています。本当なら、(恐いものみたさ、という感じも含めて)楽しみですね。 詳 […]

2009.12.13
時について、若干の考察

天から降りてくる無数の雫。漏斗としてのわれわれ(1)は、そのいくつかはあふれさせながらも、いくつかを受けとめることに成功した。受け止められた雫は滞留しながら中心に向かってゆっくりと流れ、次第に速度を増して大地に落ちるだろ […]

2009.12.12
彼岸の快感原則(フロイトに寄せて)

フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」=感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そ […]

2009.12.10
音楽と教育と歴史

なんとなく、病気をすると、バッハを聴きたくなったりする。昔から音楽にすがってきた自分にとって、死ぬ時に聴く曲くらいは選びたいと思う。もちろん、死ぬというのは大げさだが、病気で肉体的に衰弱すると、ベタに「マタイ受難曲」など […]

2009.12.03
もうひとつの近代、あるいは出来事の学についての覚書

1619年11月10日、ドナウ河畔ウルム冬営の夜、デカルトは《われ》を発見した。その時、彼に一体なにが起こったのだろうか。われわれは、これを近代の始まりとみることに慣れている。近代とは、神のものでもなく、王のものでもない […]

2009.11.20
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