長谷川等伯

review
2010.05.10

没後四百年を記念して京都国立博物館(および東京国立博物館)で長谷川等伯展が開催されている。なんとか最終日に足を運ぶことができた。京都にはあちこちに等伯があるが、一カ所でこれだけまとめて作品をみると、さすがに圧巻というか目眩というか、幾度も作品の前で息を飲んだ。雪舟よりも繊細、応挙よりも奔放。緻密にして闊達、しばし言葉を失う。中国の呪縛もなく、浮世絵の氾濫が実証主義を強いた悲哀もない。権力と芸術が手を取り合っていた幸福な時代の日本画の極北。光と影のおりなす色彩のパノラマは、久しくわたしが日本の絵画に忘れていたものだ。桃山時代という日本でもまれな時代がもっていた光と影のはざまから生まれたひとつの奇跡。「天下一」という奇妙な論理にしたがうかぎり、そこではすべてが許されていた。ひとが頂点に君臨できるとすれば、ひとえに、彼がもっとも優れていたからだ。それが大義である。このシンプルな論理を追い求めるなら、芸道と政道は齟齬しない。秀吉は自ら果敢に芸術に手を染めたし、利休は権力をふるうことをためらわなかった。等伯は長谷川派を打ち立てるべく、狩野派と真正面から戦った。絵画の世界で権力を握るのは、一番絵の“うまい”人間なのだ。芸術が反権力でなければならない時代など、ほんとうは不幸だ。もちろん、芸術は、どうみても国家には反対する。しかし権力にはさほど反対しない。無知な輩が美を破壊するくらいなら、権力=知によって美を守るほうが、大衆から煙たがられたとしても、よっぽどましだからだ。逆にいえば、国家は元来、芸術を嫌うものである。

等伯は、利休によって企図され、1589年に落慶をみた大徳寺増築にかかわり、三門壁画を担当したことにより、大絵師としての一歩を踏み出す。ここに描かれた肉感あふれる「天人像」や「迦陵頻伽像(かりょうびんがぞう)」は、もはや宗教施設であることをみじんも感じさせないという点で、この時代にこそふさわしいものである。さらに等伯は、秀吉の愛児鶴松の菩提寺祥雲寺(家康が「日本一番之寺」と絶賛した大伽藍があったことで知られる)の障壁画の画事に抜擢されたことで、その名声を不動のものにする。なかでももっとも評価の高いのが「楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)」である。画面の中央を斜めに分割する巨木の周囲に散りばめられた青葉と紅葉と花々が生み出す彩りが、依頼者の明朗さと愛児の死の崇高さとを高次にバランスさせていて見事というほかない。こうした色彩の不思議な調和は、量感によって見るものを圧倒する雄大な巨木を表現した狩野永徳にはなかった清潔さである。

もちろん、「松林図屏風」をあげないわけにはいかない(ただし好みはどちらかというと桧原図屏風である)。この絵画が水墨画の極北に位置することは、誰もが知っていよう。「自雪舟五代」と名乗った等伯のこの水墨画は、突き詰められた陰影だけで光や質感・空間を表現しようとした点で、もはや通例の水墨画の範疇を超え出るものだ(あえて水墨画の範疇で比較するなら、雪舟が岩なら、等伯は波である)。この絵画がさきの「楓図」と同じ時期に制作されたものと推測されていることを鑑みれば、光彩と陰影の極にあるこの二幅の絵画が、等伯のなかで一体の欲望をなしていたと考えるのは、あながち的外れではないだろう。

利休と秀吉、二人の権力者によって生み出された時代の雰囲気は、それまでの時代にはなかったものだ。芸術的な嗜好でいえば完全に両極の二人が君臨していた。一方は光を、他方は影を。一方は死と隣り合わせの戦場で朗らかに生の論理を追究し、他方は商いという生活のさなかにあって静かに死の論理を追究する。一方は政治でさえ戦争にしてしまったが、他方は芸術でさえ戦争にかえた。つまりそこにはドゥルーズ=ガタリ的な意味での「戦争」がある。たとえば秀吉が信長的イデオロギーを超えて兵糧攻め=「無刀」を実現したように、彼らは、戦争するためには、戦争さえ必要としなかったのである(石田三成は主人の思考を理解せず、政治を戦争にするのではなく、戦争のほうを政治に変えてしまったように思われる。そうした状況は、むしろ家康の独壇場だったのであり、この二人は国家の思想家という点で、じつはよく似ているのだ――あるいはこう言ってもいい、秀吉は家康より先に三成に敗北していた、と)。ともあれ、秀吉と利休の結合、これは弁証法的なものではなくて、両極のもののアナーキーな結合である。アルトー風にいえば「戴冠せるアナーキスト」たち、それが彼らであった。彼らは完全に対立するにもかかわらず、同じものを感じている。というか、生も死も、光も影も、結局は同じものの両面なのだ。むろん、秀吉は利休に死の論理を軽々しく用いすぎると感じていたし、利休は秀吉の生の論理を馬鹿にしていた。共闘といっても、対立していたことはあきらかだ。しかし、時の権力者たちがこうした抽象的な水準で争ったことは、芸術のレベルを飛躍的にあげた。雪舟には、結局本場中国の山水画を礼賛する日本古来の呪縛が残っていた。町人たちのあいだで浮世絵が氾濫したとしても、全体として為政者が芸術に無頓着だった江戸時代にあって、応挙は、その才能にもかかわらず、実証主義(リアリズム)の枠を自らに課さなければならない悲哀があった。こうした重しや悲哀から、等伯は自由である。アナーキーな時の権力者にとって、国家の行く末などさほど問題ではなかったように(たとえば秀吉は秀頼のいく末について、普通の父親がやる以上のことはほとんど行っていない)、等伯にとっては、絵画がもっている力がすべてだった。絵画のなかにこそ政治や大衆がいたのであり、その逆ではなかったのである。

さて、こういうことを言いすぎると歴史学者からは嫌われるのでこのあたりにしておこう。いずれにしても、その強力さにもかかわらず、芸術はナイーヴなものだ。時の権力によって、あまりにも影響されてしまう儚いものである。そうした影響関係を脱するためには、結局、芸術そのものが権力となる瞬間を期待するしかない。秀吉と利休の対立は後者の死によって購われたが、この勝負はどちらもが敗者であり(というか秀吉がやはり敗者である――利休には国家がある)、両者の決裂は結局、光の側に政治を、影の側に芸術を、という紋切り型の枠に押し込める結果になってしまった。影としての芸術は、光としての政治を補完するようになる。つまり、両者は弁証法的なものになった。その後、日本画は、近代に至るまで、光のモメントを失ってしまったように思われる。

桃山時代から遠く四百年がすぎた。われわれの時代は、思った以上に江戸時代に似ているということを、芸術が示しているのかもしれない。応挙の悲哀を背負うか、あるいは浮世絵の諦めに流されるのか、われわれはこの二者択一しか持っていない、というのは、いささか絶望的にすぎるだろうか。等伯の絵画をみて、そのあまりに自由な筆致に、勇気と同時に絶望的な距離を感じてしまったのも、事実である……。

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