自分はテレビも見なければ新聞も読まず、当然、世間の情報に疎く、社会にはインターネットを通じてしか接し得ないが、重要なのは、ここでの言論がすべてと思わないこと。あらゆるメディアがそうであるように、人間そのものには間接的にし […]
超越論哲学——キリスト教社会における、神的超越から人間的超越「論」への移行。西欧社会がもちえたカント哲学の価値を、東洋のわれわれは想像するほかない。また一方で思うことは、カント哲学は日本にあまりのもはまりすぎるのではない […]
独白とはなにか。この奇妙な言葉について考える際に重要なことは、ある観点をこの問いに紛らせないことだ。すなわち、社会である。つまり社会化されない言葉は、すべて独り言である、と考える立場である。たとえ複数の人間のあいだでかわ […]
自然は固定観念をもっている。たとえば太陽は東の空から昇って西の空に沈み、蝉は夏の盛りに啼く。夜の終わりに覚めて昼の終わりに眠り、赤信号で足を止め生まれそして死ぬ。 自然界は、いわば固定観念の束である。羅針盤の針が北を向き […]
「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐 […]
わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じて […]
ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つま […]
ニーチェはいう。 すなわち貧弱な心理学者であり人間通。…徹頭徹尾の独断論者であるが、この傾向に重苦しく倦怠し、ついにはそれを圧制しようとねがったものの、懐疑にもただちに疲れてしまう。いまだ世界市民的趣味や古代の美の息吹き […]
ニーチェというひとりの人物が成長し、文献学者から哲学者へと変貌する姿は、ぼくたちを感動させる。そこには、なにひとつ無駄なものはない。そうした成長の物語――ひとりの独身ドイツ人の伝記作品を、ニーチェの生涯に見ることは、もち […]
わたしはいまのところ歴史学者のはしくれであって、別に哲学研究者ではなく、最新の研究動向も知らなければ、そうした能力も時間も欠いているのだが、それでもやはり、最低限カントくらいは読むし、無責任な、かつ自分なりの読解がある。 […]
世界は、今も、ストア派のひとたちや、カントの言った「世界共和国」に向かってまい進している。世界は可能なかぎり最善の秩序において構成されている。世界理性というものがあるとすれば――それは、すべてを《緩慢に》焼き尽くす炎だ。 […]
カントによれば、純粋理性は次のような道のりをたどる。(1) 独断的理性、(2) 懐疑的理性、(3) 批判的理性、である。これらについて、わたしなりに解説を加えてみよう。 (1) 独断的理性 たとえば神や、あるいは自己の […]
柄谷行人は次のように言っている。 カントによれば、統整的理念は仮象(幻想)である。しかし、それは、このような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」です。カントが『純粋理性批判』で述べたのは、そ […]
今日、その名が名指しされるか否かは無関係に、ある勢力が瀰漫している。それは、新しいカント主義者たちの勢力である。 かつては新たな経験論の到来としてあれほどにさかんに謳われもした、ジャック・デリダの《脱構築》は、いつしかア […]
現象はそれ自体として物ではないから、現象を表象として規定するためには、現象の根底に物自体が存しなければならない。(カント『純粋理性批判』) わたしはカントのような見方をしない。つまり、視覚などの諸感覚によっては認識不能の […]
扉の向こうに何があるのか、わたしが考えていたことは、いつもそのことだけだった。扉を見ていると、無性に向こう側の空気が吸いたくなった。鍵穴がこちら側にあるので勘違いしていたのだが、てっきり、わたしは扉の外にいるのだと思って […]