ハイゼンベルク(1)の不確定性原理Uncertainty principleは奇妙なものである。この原理を生活レベルに(つまりあえてマクロレベルに)翻訳すればこうなる。われわれがグラスなどの対象をみるとき、目から発せられ […]
1619年11月10日、ドナウ河畔ウルム冬営の夜、デカルトは《われ》を発見した。その時、彼に一体なにが起こったのだろうか。われわれは、これを近代の始まりとみることに慣れている。近代とは、神のものでもなく、王のものでもない […]
荘子の言葉をもう一度引用する。 荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや(魚)がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「 […]
小林秀雄について、なにか書いておこう。彼は、一九八三年まで生きた。その意味では、彼は孤独だっただろう。自分より若かった高見順も早世し、川端康成も自殺し、そして志賀直哉も死に、そのなかで、戦前のひとたちがもっていた、ある種 […]
言語は、主体の意志を伝えるための道具である。このとき、ある語と結びついている特定の意味が参照されなければ、意志が伝達されるということはない、と考えられる。したがって、《意味》が共有されていなければならない。《意味》という […]
デカルトの《コギト》。これについては多くのひとが少しは聞いたことがあるだろう。わたしがこれから語ることは、読者にそれほど理解されないだろうし、きっと誤解されるだろう。そもそも、読者に余計な期待はしていないつもりだが、問題 […]
声と文字、このありふれた二つの《人間的》ツールについて、少しだけ考えをめぐらせてみよう。 声と文字は、ともに他者とのコミュニケーションのツールだが、その違いはなんだろうか。コミュニケーションのツールという点でこれらを比較 […]
憲法というテクストがある。これはわたしたちの外部にあり、国民投票という改変を経なければ、どうにもならない《もの》である。カント風にいうと、かの憲法は、一種の《物自体》である。もちろん、改変できる以上、「どうにもならない」 […]
一度にたくさんのことを言ったり書いたりすることはできない。こうして、ひとは、時間や空間の存在することを知るのだが、ともかく、この時間や空間のせいで、たくさんのことを語り残した。思えば、かつてわたしのものだった言葉から、ひ […]
京都国立博物館にて、「空海と高野山」展が開催されている。真言密教の開祖、空海の思想は、このような言い方が許されるなら、南都六宗などいわゆる顕教のエクリチュール中心主義に対して音声中心主義を基軸としている。こうした音声中心 […]
アメリカはどうしても戦争したいようだ。記者会見に挑むパウエル国防長官の苦悩が察せられる。まったくアメリカ追随の日本だが、本当にあの政権が長続きすると思っているのだろうか。フランスやドイツの明確な反米の態度は、そこまで見越 […]
かつて、地中海には、系統不明の民族、“海の民”と呼ばれる人々がいた。エーゲ海に浮かぶ島々を利用することで補給を自在にし、アッシリアやエジプト、あるいはヒッタイトなどの国家的な支配に対抗していたのである。彼らの活動は、その […]