声と文字について(デリダとの和解にむけて?)

philosophy
2007.05.17

声と文字、このありふれた二つの《人間的》ツールについて、少しだけ考えをめぐらせてみよう。

声と文字は、ともに他者とのコミュニケーションのツールだが、その違いはなんだろうか。コミュニケーションのツールという点でこれらを比較すれば、伝達スピードや伝達範囲は、声と文字とがもっている重大な差異のいくつかでありうるだろう。また、これらをひとが捉え、あるいは発する際に、手を用い、視覚に訴えるのか、それとも発声器を用い、聴覚に訴えるのか、という点も、大きな差異でありうるだろう。

毎度おなじみ、ジャック・デリダは、自分が話すのを聞く、という閉じた円環に、一種の現前の共同体をみたわけである。そこには他者性がなく、したがって独我論的で、つまりは批判の対象となるような、そういう円環である。このように、他者を締め出したところで実現する閉じた円環のなかで、デカルトやフッサール、あるいはもっと遡ってプラトン以来、音声(フォーネー)の至上性が賛美されてきた、というのである。

とはいえ、わたしたちには、自分が書いた文字を見る、ということも可能である。その意味では、狭義のエクリチュールの方に際立った特権性があるわけではない。とくに、インターネットで掲示板やらブログやらが幅を利かせている昨今にあっては、自分が書いたものを即座に見る、というような、一種の閉じた円環が、いたるところに作られている(独白ばかりのこの文章がまさにそうだ)。それでもデリダの理論を活かすために、インターネット上で踊る文字は、文字というより音声であって、つまり、エクリチュールに見せかけた音声だ、とあえて言ってしまうこともできる。もちろん、そんなことをして彼の理論を守っても、ひとはもうこんがらがってしまって、声と文字のどっちが大事なのかわからなくなってしまうだろう。いずれにしても、声の文字性であるとか、文字の声性であるとか、そういうことが考えられるらしい。

デリダの音声中心主義批判は、プラトンやデカルトがその批判対象かどうかは別にして、本質的に正しいだろう。実際に、彼が批判するような閉じた円環はいたるところに作られ、他者を締め出し、そうすることで自分の吸う息を奪い、結果的に自身を窒息死に追い込んでいる。こうした事態に対して、エクリチュールの他者性は、たしかに可能性となりうる。現前の共同体を裏切る文字の《差延》は、いまにも閉ざされようとしている音声の円環に、致命の楔を打ち込むことに成功するだろう。《わたしはこんなことは言っていない》と言っても無駄である。なぜなら、文字がそこにあるからだ。

しかし、それはエクリチュールにとってあまりに都合のいい評価というものだ。なぜなら、音声の問題点だけをあげつらい、他方で文字の美点だけを取り上げているのだから。残される「痕跡」によってエクリチュールを讃えるのなら、他方の音声は、消え去ることによって比較しないと、ほとんど意味をなさなくなる。先にも述べたように、音声がもたらすとされる閉じた円環は、エクリチュールにも存在しているからだ。

最初から残すために作られるエクリチュールというものがある。一年、十年、百年、千年。エクリチュールは、時空を越えて、人の一生を優に超えてまで、現在に残存し続ける可能性を有している。こうしたエクリチュールは、つねに‐すでに消え去ってしまった出来事を非‐歴史として締め出し、エクリチュールによって転写された出来事――歴史を生み出す《選別》の装置にもなりうる。これらは、エクリチュールが残り続けるかぎり、たえず機能する。こうした歴史の共同体は、批判されないでいいわけがないし、実際に、デリダ当人も批判しているのだ。この場合、むしろ、評価されねばならないのは、音声の消失可能性なのではないのか?

声と文字との、もっとも重要な違いは何だろうか。それは、両者が生み出す時間概念の差異であると思う。《声》は、過ぎ去る時間に寄り添いながら、たえず時間上の一点を占め、この唯一無比の時間とともに消え去っていく。その一方で、《文字》は、紙などの媒体に定着しながら、媒体の持続力に応じて同じものを反復しつづける。さて、これらは差異だが、この差異は、あるひとつの関数に変換できる。つまり、時間に対する抵抗力である。声を、空気を媒体としたエクリチュールと考えればよいのだ。この場合、声はほとんどゼロである。文字は、物質の持続力に依存した抵抗力を有する。じつは、この関数が、わたしたちのよく知っている時間軸そのものであるようだ。過去に向かって消え去ってしまう声と、現在に向かって定着しつづける文字の差異が、時間軸を可能にしているのである。つまり、時間軸=歴史は、すでに、声を折りたたんでいる。こうして、デリダと反対のことを言うことも可能になる、というわけだ。

たとえば、肌にタトゥーを彫れば、たとえその肌の持ち主が死んでも、皮膚が残っているかぎり、タトゥーは現在に向かって絶えず残存する。このタトゥーは、デリダの用語で《痕跡》と呼ばれる。もちろん、こうした痕跡は、この痕跡の原因がはっきりしているかぎり、同定可能なものであり、デリダにすれば、《痕跡ではない》、ということになってしまうのだろう。が、そういう彼一流の理屈はこの際、少し遠ざけておこう。とにかく、エクリチュールは、媒体の持続可能性にしたがって、《痕跡》となる。

しかし、ここで、ひとつ、ある問題に気づく。つまり、じつは、《痕跡》もまたいずれは消え去るということである。声と文字とは、たんに、媒体が空気であるか、それとも紙や石や肌や脳の記憶層であるか、という違いしかない。声は、空気に刻まれた文字なのだ。古代の美女を描いたどこぞの壁画が、発見されるや消失に向かってこれまでとは段違いに異なるスピードで歩みを始めたように、あるいは、かのパルテノン神殿が、いまも崩壊に向かって遅い歩みを歩んでいるように、消失を止めることは絶対にできない。その意味では、これらの《痕跡》もまた、《忘却》を待っているひとつの声でしかないのである。文字もまた、ひとつの声なのだ。……

じつをいうと、声と文字とのあいだに、ことのほか大きな差異を設けているのは、《人間》であり、とくにその生と死なのである。つまり、人間の一生を越える持続力を有していないもの、有しているもの、それが、声と文字とのあいだに差異を設けているもっとも大きく、かつ外在的な根拠にほかならない。つまり、自分の一生を越えて言葉が残存すること、それがエクリチュールなのだ。そう考えれば、なぜ、ひとが自殺するとき、《痕跡》を残そうとするのかが、よくわかる。というよりも、この場合の「自殺」とは、ひとつのエクリチュール至上主義なのである。自身の言葉を、エクリチュールにするためのもっともよい方法は、即座に死んでしまうことである。死ぬことによって、エクリチュールは完遂されるからだ。死ぬことによって永遠の生を生きるという、死の弁証法――歴史主義者がひとに自殺を命じるのは、こうしたエクリチュール至上主義に端を発しているのである。

エクリチュール至上主義は、一種の人間至上主義でありうる。死を越えて残るエクリチュールの可能生と、そして不可能性。ヒューマニズムがときにひとを自殺に追い込むのは、文字を声から峻別しようとするからなのだ。文字は、かくして、人間至上主義の代償なのである。

重要なことは、声と文字の差異ではないし、それに気を取られてはならない。むしろ、意を置くべきは、消え去るのか、残るのか、という違いである。それらは、結果的には同じことで、いずれは消え去る運命にある。もっとも身近にあるはずの声が、じつは、遠くにある文字を超越する。というか、文字やテクストが生み出す超越性を、声はもう一度打ち消す。

デカルトは、《われ思うゆえにわれあり》と言った。Cogito ergo sumとI think that I amとのあいだには、まったく違いはない(通例の文法など、この際、忘れてしまった方がいい――ergoはthatであり、むしろandでありonである)。つまり、《わたしは存在していると思っている》、というわけである。ひとは彼を笑うかもしれない、そんなもの、少しも存在の証明ではない、と。だが、わたしは、これを、消え去ることによって存在する、いまもっとも新しい存在論だと考える。彼は別に自殺しないだろう。なぜなら、はじめから、消え去る声に、自分の生を託しているからだ。生きることによってしか、つまり、消え去る過程によってしか、この存在論は完成しないのだ(歴史の存在論が、死ぬことによってしか完成しないのとはまるで正反対である)。

わたしたちはどのみち消え去る。だが、消え去るからこそ、わたしたちは、存在していると言えるのである。歴史にばかり存在証明を托すのにも、いい加減に飽きてきた。重要なのは、声だ。それはいみじくもデリダが言ったように――「他の声を、さらに他の声を」。

出来事は、消え去ることによって定義されるのでなければならない。書き残された歴史からたえず逃れていくような、そういうもうひとつの歴史がある。消え去ることは身体の死を意味しない。出来事は、声という非物質的な、非身体的なものだからだ。出来事が言葉であり、そしてとりわけ声であるというのは、そういうことだ。

声でもあり、そしてときに文字でもあるような、ひとつの声。わたしたちが必要としているのは、そういう新しい言文一致主義であり、そんな新しい言文一致運動である。文字を、できるだけ音声に近づけること。たとえ狂気といわれようと、わたしたちは、どのみち、《ディスクール》が《エノンセ》に変わる可能性に賭けるくらいしか、道は残されていない。出来事は文字によって描かれるべきではない。出来事はつねに声とともにあり、そうして絶えず消え去っていく。もし、にもかかわらず、あなたがたが真実を《書こう》と思うのなら、たえず、いまもまた消え去ってゆく無数の声のことを、どうか思い出してほしいのだ。無数の無邪気で邪悪な歴史家がテクストにこだわっているあいだに、あなたがたには、《声を書く》ことを試みてほしいのだ。デリダはいわずもがな、かつての偉大な作家たちが、みなそうであったように。……

1 Comment

  • 藤井孝弘

    2022年12月3日(土) at 14:09:22 [E-MAIL] _

    突然の連絡すみません。
    趣味でデジタルアートを作っているしがない者なのですが、先日投稿した作品のタイトルに関して、ネット検索をしてみようと思い試みたところこの記事に行きつきました。そして、あれよあれよと記事を最後まで読み、わたし自身が作品に密かに込めた、まだ言語化できていない考えのようなものが示されていたかのようで、驚き共鳴し膝をうち、ついにはこの問合せに勢いでこんな迷惑な文章を打ち込んでいるところです。
    せっかくなので以下URLから作品を見ていただけると望外の喜びです。(もろもろ恐縮な限りですが、、、

    https://neort.io/art/ce3k81sn70rlpj69c980?origin=art_creation&newRelease=false

    ps.無視してもらって構わないです。良きに計らってください。

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