《文学》のプログラムIV、荘子とヒルベルト

philosophy
2009.07.06

荘子の言葉をもう一度引用する。

荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや(魚)がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「君は魚ではない、どうして魚の楽しみがわかろうか。」荘子「君は僕ではない、どうして僕が魚の楽しみをわかっていないとわかろうか、」恵子「僕は君ではないから、もちろん君のことはわからない。君はもちろん魚ではないのだから、君に魚の楽しみがわからないことも確実だよ。」荘子は答えた、「まあ初めにかえって考えてみよう。君は『お前にどうして魚の楽しみがわかろうか、』といったが、それはすでに、僕の知識のていどを知ったうえで、僕に問いかけたものだ。(君は僕ではなくても、僕のことをわかっているじゃないか。)僕は濠水のほとりで魚の楽しみがわかったのだ。」
金谷治訳『荘子』秋水篇、岩波文庫

普通に読むかぎり、荘子と恵子の違いはこうである。恵子は、「わからない」という状態を、「魚の気持ちなどわかるものでは《ない》」という否定文と考える。この否定文からある種の決定不能を導き、命題を宙吊りにもっていくことで、荘子を論駁しようとするのだ。だが、荘子はこう考える。「わからない」という文を、理解の否定ではなく、実践的な理解の程度を示すとした。そこから、決定不能の宙吊りを大地に引き摺り下ろし、命題を肯定の側へと大きく転回させるのだ(この議論の差異は、無限と無際限の違いとして有名である。無限を、際限がない、という意味の無限と、実無限とに分けるのである。カントールの集合論は、無際限よりも、実無限の方が大きいことを証明する)。

この会話の論理学的なカラクリはこれだけなのだが、われわれがもっと気にしなければいけないのは、にもかかわらず、荘子が《嘘》をついている、ということである。魚の楽しみを知る、などということは、科学的な観点、あるいはカント的な観点からは、まずまちがいなく真理とはなりえない。恵子の論理学的な議論とは無関係に、魚の楽しみなどそもそもわかるわけがないのである。《他者》の感情は、基本的にはカントがいうように不可知である。彼女が泣いているからといって、本当に悲しんでいるかどうかは他人にはわからないし、つきつめていけば、本人にさえわからない。つまり、どう考えても、《荘子は嘘をついている》のだ。そして、もっと不思議なことは、《他者》の不可知性にもかかわらず、そして荘子の言葉が《嘘》であるにもかかわらず、恵子の決定不能よりも、真理に一歩踏み出しているという不思議な事態が発生していることである。

これは本当に不思議なことである。嘘が真理に触れる? 虚構が真理に触れる瞬間がここに現れているのだろうか? たとえば、無実のひとは、「わたしは犯人ではない」という否定文が信用してもらえないとき(この事態がひとを極限状態に追い込むことが容易に想像できる)、ときに《嘘》をつくことで自身の潔白を証明しようとすることがある。「わたしがやった」というわけである。こうした嘘の自白が行なわれることは、たとえば刑事がふるう暴力とは間接的な関連しかもたない。むしろ、言語と出来事そのものの構造上の特性から必然的に、もっとも真っ直ぐに導かれるのである。というのも、本質的に《正直》である彼は、「わたしは犯人ではなく、わたし以外の者(というかほかならぬ別人)が真犯人である」と述べる術を持たなかったからである(この嘘は、否定文と同じ自己言及しかもたらさない)。だから、ひとは、自身が無実であればあるほど、そして正直であればあるほど、かえって追い詰められて嘘の自白―最小の嘘であるような―を行なってしまうだろう(刑事はそのことを知っておくべきだった)。否定文ではない形で自身の潔白を証明するには、《嘘をつくほかない》のだ。そして、事実、より真理に近づいているのは、理論上は否定文である前者ではなく、後者なのである。徹頭徹尾自己言及である否定文は、なにしろ、自分自身を否定することしかしない。……

ゲーデルは、不完全性定理によってヒルベルトの数学基礎論にとどめを刺した。この証明を、ヒルベルトは同僚のベルナイスから聞いた。ベルナイスにはヒルベルトが一瞬、「怒った」ように見えたという。そして最晩年のヒルベルトは、こう言っている。

ゲーデルの結果により証明論が実行不可能となったという見解は間違いであり、それは有限の立場の拡張が必要であることが判明しただけだ。
『数学の基礎』前書き(林晋訳『ゲーデル 不完全性定理』岩波文庫より再引用)

ヒルベルトのそれまでの基礎論の試みが誤っていたとしても、彼のこの言明そのものは、わたしには正しいように思われる。有限であるひとが、無限に触れるためにもっているもっとも強力な手段が、《嘘》である。《嘘》があれば、ひとは神とさえ話すことができる。だからひとは《文学》を書く。そして、もっと重要なことは、《嘘》には、おそらく種類が二つあるということである。ひとつは、たんに自身に帰ってくる嘘である。自己回帰的な嘘は、実際には否定文と呼ばれることが多い。「わたしは犯人ではない」というのがそれであり、恵子は言語をこうした本質的に自己回帰的な嘘だと考えている。そしてもうひとつの嘘は、他者を巻き込みながら自分に返ってくる嘘である。荘子は、まるで山に登ればいつも獲物を携えて戻ってくる狩人のように、言葉を発するのだ。この豊かな嘘も否定文の形をして現れることがままあるが、嘘であるにもかかわらず、真理に向けて発声される嘘である(この両者の違いは、ひとから聞いておもしろくない《夢》とおもしろい《夢》を分かつ中心的な分水嶺といってもいい)。ともかく、虚構には、二つの区別が必要だし、この区別なしに虚構という語を用いたとしても、たいていは、カント主義に搦めとられてしまう。

出来事の科学的基礎を与えようとしてきた歴史学は、つねに、自身のうちから《文学》を排除しようと試みてきた。実際、虚構をものす《文学》は、あまりにも科学とは、そして真理とはかけ離れているように思えたからだ。その場合、歴史学がもっとも忌み嫌ってきたのは、デリダの想定とは逆に、《声》である。《声》は、出来事に基礎を与えるには、あまりにも弱々しいものだったからだ。なにしろ、紙や石版といった媒体という定着物を有していないのだから(だが、実際には、この媒体という定着物が、言葉をリプレゼンテーションに変えてしまう……)。歴史主義は、声ではなく、文字に対する極端な傾斜によって、はじまっている。会話文が存在しているだけで、それは歴史学ではなく、歴史小説だと考えられてさげすまれてきたのである。

むろん、ありきたりの歴史小説のように会話文を挿入することが、出来事の学にとって重要だというのではない。そうではなくて、出来事の基礎にとって、もっとも重要なことは、むしろ《声》を弁証法的に統合することなく、つまり声を文に還元することなく声を扱う、一種の特異な書物を書くことなのではないか。つまり、出来事の基礎論にとって本当に必要な行為は、《文学》することなのではないか。「有限の立場の拡張」。最晩年のヒルベルトの言葉は、おそらく、そのことを指摘している。

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