1910年4月、大逆事件が明るみでるひと月前、血気盛んな若者たちによって、ある文芸誌が創刊される。その名は『白樺』、資本主義市場からは一線を画した、一度も商業ベースには乗ることのなかった、しかし文壇の天窓を開いたと言われ […]
最近は本当に忙しい。定職があるわけでもなく、ただただ時間を労働に浪費する。これでは本当の仕事はなかなかできない。われわれのような貧しい立場の人間は、この社会で生きていくのは難しいに違いない。「違いない」と人ごとのようにい […]
ハイゼンベルク(1)の不確定性原理Uncertainty principleは奇妙なものである。この原理を生活レベルに(つまりあえてマクロレベルに)翻訳すればこうなる。われわれがグラスなどの対象をみるとき、目から発せられ […]
1619年11月10日、ドナウ河畔ウルム冬営の夜、デカルトは《われ》を発見した。その時、彼に一体なにが起こったのだろうか。われわれは、これを近代の始まりとみることに慣れている。近代とは、神のものでもなく、王のものでもない […]
歴史を生業にする者にとり、過去は偉大である。ときに圧倒的な尊敬の対象である。だから、史料を読むとき、批判から始めることはない。歴史家の前に、過去は問答無用の確信を迫って現れる。《常識》が遠ざけたがる奇妙な記載は、本当に不 […]
小林多喜二を読んでいると、いかに《文学》が神聖なものだったかを、強く感じさせられる。共産党の活動の奥深くに食い込んで非合法生活をつづけるなかで、それでも彼は最後まで筆を手放さず、自分の目と耳と指とを信じ続けた。だから、自 […]
平行線の定理が世界を論じる際に必要ないことに勘付いた近代の科学者たちは、そのとき、すでにその手に絵筆を握っていた。世界は、線分でできているのではない。色彩によって実現されているのだ。彼らはそのことに気づいた。だが、今日、 […]
この夏、一番の思い出といえば、城之崎に行ったことである。家賃を納める際、毎月2000円余分に預ける、ということを続けていたら、それなりにお金が貯まっていたから、それで行った。城之崎行きを、印象深いものに変えたのは、やはり […]
小林秀雄について、なにか書いておこう。彼は、一九八三年まで生きた。その意味では、彼は孤独だっただろう。自分より若かった高見順も早世し、川端康成も自殺し、そして志賀直哉も死に、そのなかで、戦前のひとたちがもっていた、ある種 […]