数学は、自身の中に虚数imaginary numberを組み込むことにすでに成功している(イマジナリーと呼んだのはデカルトだが、この命名は今日ではあまりよくない)。現実にはありえないとされるにもかかわらず、すべての二次方 […]
昔、ある人がこう言っていた。「わたしたちが見ている世界は、いつも世界の半分だ。」それは、正しいと思う。わたしが見ている世界も、きっと、世界の半分だからだ。世界には、つねに、もうひとつの世界、すなわち、反世界がある。わたし […]
今日、その名が名指しされるか否かは無関係に、ある勢力が瀰漫している。それは、新しいカント主義者たちの勢力である。 かつては新たな経験論の到来としてあれほどにさかんに謳われもした、ジャック・デリダの《脱構築》は、いつしかア […]
似ていることを云々することは、似ていないことを際立たせることであって、実際にはそちらの方が重要であり、それはヘーゲルが反面教師的に教えてくれたことでもある。似ている、と言うことは、似ていないと言うことに等しい。…… 歴史 […]
真実は、今、ここに瞬間的にしか存在しない。真実は、未来においては、希望として未規定の形に人々の心に残されたままであり、過去において真実は、運命あるいは歴史のなかに、人々の心に変形させられた記憶として、断片的に残されるのみ […]
歴史に取り組むことは答えのない難問に取り組むようなものである。真実は誰にもわからないか、あるいはどこにもない。ただ個々人によって変形させられた事実があるのみである。この「変形せられた事実」から、いかに多くの人々を納得させ […]
書くことが歴史なら解釈は是とされる。いや、書くこと自体が解釈することと同じである。……いかに僕が真実のみをただ提示しようという姿勢をもって歴史と接したところで、取捨選択の段階でそこに解釈が浸入する。当然、我々は歴史学が現 […]