真実はどこへ?

history
2000.06.25

真実は、今、ここに瞬間的にしか存在しない。真実は、未来においては、希望として未規定の形に人々の心に残されたままであり、過去において真実は、運命あるいは歴史のなかに、人々の心に変形させられた記憶として、断片的に残されるのみである。歴史は、変形させられてしまいもはや元通りにならなくなった真実を、それをさも真実であるかのように現在に甦らせ、装わせる偽善的な概念である。われわれは、歴史を再定義しなくてはならない。歴史は、過去の事象から真実と思われるものを導き出すことではなく、あくまで、人々の記憶にある変形された真実をいかに変形されたままの形で抽出するか、ということにあるのだ、と。真実を読み解くことは不可能である。ただ、真実の変形を読み取ることだけが可能である。経験せよ。歴史は解釈である、という居直りにとどまっていてはならないのだ。そこにとどまっていては、歴史学も歴史小説にも大差はない。両者を分かつのは程度問題だけである。いや、むしろ、歴史小説のほうが、歴史に対して真摯な態度といえる。両者とも見せかけであるにもかかわらず、前者は、自分が見せかけであることを明かしていないからである。歴史を否定的に捉えるのは止めにしなくてはならない。個々の記憶における真実の変形を、肯定的に捉えること。その意味においてのみ、歴史はネガティヴな諸規定から脱することができる。史料批判などというものはありえない。偶然と必然は対義語ではない。ただ、時間軸のちがいで同じものが別の名で呼ばれるだけである。同じものの異なる状態を示しているだけである。

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