書くことと解釈

history
1999.12.01

書くことが歴史なら解釈は是とされる。いや、書くこと自体が解釈することと同じである。……いかに僕が真実のみをただ提示しようという姿勢をもって歴史と接したところで、取捨選択の段階でそこに解釈が浸入する。当然、我々は歴史学が現代に適用される姿しか見ることができないのだから、時代背景にのっとって歴史を解釈したっていいじゃないか、開き直ることも可能だ。歴史学者は皆、過去の様々な事実に対して中立者であろうとしてきたに違いない。しかし、いかに優れた歴史学者であっても時代背景や思想がその歴史解釈に、無意識的に作用する。時代背景とともにある歴史解釈はとうぜんそれ自体が歴史とともにあると言える。あのヘーゲルの歴史観だって、その同時代にだけ適用しうる歴史観に過ぎないのだ。歴史学者は過去の事実を審判するが、だがもちろん神ではない。いや、絶対的な真実などどこにもないのかもしれない。そこにはたぶん、差異があるだけだ。きっとどこかの哲学者が一度は言っただろうこの差異こそが、歴史の事実である。我々は事実を評価することはできない。すなわち、書くことが歴史であるなら、僕は歴史学を実践できないということだ。僕はより一層中立者であろうとし、そして差異を提示するという姿勢を貫くほかない(つまらない、とりとめのない文章)。

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