実数と虚数、あるいは歴史と文学(メモ)

philosophy
2009.04.24

数学は、自身の中に虚数imaginary numberを組み込むことにすでに成功している(イマジナリーと呼んだのはデカルトだが、この命名は今日ではあまりよくない)。現実にはありえないとされるにもかかわらず、すべての二次方程式が例外なく根をもつという美的な観点から要請された虚数は、今日では、電磁気学や量子力学(物理学)など、より現実と深く関わる学問においても必須とされているものであり、虚数の発明という数学上の拡張は、同時に現実の空間認識をも拡張している。

その点では、実数real numberのみならず、虚数の実在は多くの学者によって主張されているが、そこにはある種の論理の省略がある。というのも数は、当たり前のことだが、そのままの形で存在するのではないからである。数は普通の意味での実在ではない。実数がイマジナリーでないということはできない。つまり、《実数もまた、虚数である》。そして表題が示唆しようとしているのは次のことである。すなわち、いわゆる「言語論的転回」が主張したのも、これと同じことだということである。《歴史もまた、文学である》。つまり、文学のなかに、歴史は内包される。前近代以来、文学(部)に歴史(学)が組み込まれてきたことは、正当性をもっている。

ただし、「言語論的転回」を超えてこの定義が真に有意義な形で駆動するのは、美的な観点から要請された想像的なものであるはずの虚数が、にもかかわらず不思議に現実に機能するように、歴史は文学であるにもかかわらず、現実に起こった出来事をも示すという、奇妙な観点に到達した場合だけである。言葉は比喩にすぎず、ついに現実には触れられない、というデリダ的・カント的なテーゼ、要するに、言葉の外部の不可知なものとして規定される《物自体》という思考を超え出なければならないということである。そうでなければ、「言語論的転回」は、《歴史は所詮、物語であり、よくいって、歴史家の認識にすぎない》という不毛な議論を招くだけになってしまう。

この《にもかかわらず》を実現するためには、文学は、真にイマジナリーなものを組み込まねばならなかった。真にイマジナリーなもの、すなわち、「小説」である。とはいえ、「小説」を文学に組み込むことができたのは、ごく最近のことである。近代の重要な変化は、かつて戯作と呼ばれ、虚数同様にさげすまれてきた「小説」を文学に組み込むことに成功したことにある。小説は、数学における虚数同様、現実の空間認識を革命的に拡張した。それが民主主義である。

この点で、数学は、やや芸術に似通っている。芸術もまた、ある点では物質的な実在からはかけ離れている(とはいえ、芸術はかならず物質と関係をもつ点で、数学よりは物理学に近い)。芸術とは、実数でもあるような虚数である。とはいえ、わたしは、芸術は数学的であれ、というようなことを言おうとしているのではない。たとえば、ある種の芸術が、数学的な美しさをもっているといわれる場合があるが、わたしからすれば、それはたんに芸術的であるということである。芸術は、本来的に数学的(リズミカル)な部分を有するのであって、芸術が本来の形で追究されるかぎり、あえて数学的であろうとする必要はどこにもない(むろん、個々の芸術家が数学に敬意を払うのは、当然ありうべきことであろう)。

数とは、いわば、未来に現実化しうるような、つまり実在の潜勢的なあり方のことである。実数と虚数の差異は、実践的には、より深く潜行しているかどうかによっている。その深さ(強度)に応じて、それが実数と呼ばれたり、虚数と呼ばれたりする、というだけのことである。実数よりも虚数のほうが、より強度を持っているのである。この点で、こうした実在(自然)の潜勢的なあり方を追究する芸術は、その意図するところが同じであって、たんに架空のものを拵えるのではない(人文学に即していえば、社会学よりも歴史学のほうが、歴史学よりも小説のほうが、強度がある)。強度の如何によらず、というより強度が高いほど、リアリティは強力に追究されねばならない。たとえば、ギリシアのある彫刻をみた子供が、これは本物《になる》かもしれないと思ったとすれば、それは、その子供がしっかりと芸術を捉えているということを意味する。つまり、ギリシア彫刻とは、二〇〇〇年以上にわたり、これからアクチュアライズされる潜勢的な、リアルななにものかであり続けているのものである(現実に、それ以後の多くの芸術家を触発する巨大な力となっている)。

しかし、どこかの大人が本物《であるかのよう》だ、と思ったとすれば、その彫刻に封じ込められた芸術は逃げてしまう。この言葉は、結局のところ、虚構の世界(言葉の世界)と現実の世界(物自体の世界)の区別の別の言い方だからである。つまり、あまりにも虚数(虚構)のイマジナリーな部分を特別視しすぎたために、かえって、虚数と実数とを極端に区別する思考を誘引している。

この区別は、文学と歴史の分割、感性に依存した想像的なものと、記憶(悟性)に依存した想像的でないものの区別を要請している。そこで歴史がよくない意味で特権的な形で現れるようになる。虚構とそうでないもの、いずれを重視するにせよ、小説と歴史とが区別され、結果的には、歴史と小説とがともに組み込まれることではじめて革命的な意味をもったはずの文学が、その力を失う。そしてこの区別は次第に現実と言語をも分割し、歴史は、ついに固有名が代表(リプレゼント)するなにものかとなる。かくして、そこに、ある閉ざされたロマン的な空間が形成される。現実との接点をリプレゼンテーションという形でしか有さない虚構の世界は、一見するときわめて華やかな芸術空間を作りはするが、それはついに虚構のまま現実との接点をもたず、芸術が力であるために必要な潜勢的な真の力さえ失われてしまうだろう。小説は、虚数は、しょせんは虚構に過ぎない……。つまり、こうした分割的な思考は、小説がもたらした革命に対する反動であるように思われる。そして、本来は一であるはずの世界を、弁証法的な結合という偽装された理想的関係に置きかえてしまう。

HAVE YOUR SAY

_