歴史学者は、ひとりの潜水夫である。海の底で、息が続くかぎり、古い宝物を拾い集めようとする。岩をめくっても、なにかとれることは滅多にない。この海は、忘却の海だ……。地上から忘却を非難するひとがいる。たしかに、この海には、宝 […]
二つ上の世代は上手に船を造った。一つ上の世代は船を上手に乗りこなした。しかし船はだんだん老朽化してきた。「ぼくらが島まで行ったら、この船は終わりだよ。」彼らは船を直そうとも、新しく作ろうともしなかった。彼らは言った。「子 […]
「音楽では革命は起こせない、というのを最近知ったよ。若い頃にはそう思っていろいろやったけどね。音楽はひとを教育する。それはとても国家的な教育なんだ。だから、いつも教育してしまう音楽を、なんとか別の方向に持っていければ、そ […]
夏が終わりを迎えるころ、わたしはある男に出会った。男は、「ずっとぼくを悩ませてきた問題がある」と言った。「自分の主張が反社会的とみなされ、死を宣告されるようなことがあったとする。ぼくはそのとき、どのように振舞うべきなのか […]
君は、いつも真理を求めていた。真理にたどりつくにはどうすればいいのか、どの道をたどるのが正しいのか、いつも考えてきた。といっても、自分からそう望んで考えていたわけではない、それをどうしても考えさせられたのだ。先人たちはい […]
わたしは、病院で、こういう話をした。医者は黙って聞いていた。わたしは、この話をするまで、彼のことを、すっかり忘れていた。 ◇ ある男――つまり《彼》が、こんなことを言っていた。 「最近、ひとから、本気の言葉をついぞ聞かな […]
Kは、強く、そしてやさしい人間になりたいと、ずっと考えてきた。いまもそうである。その際に、もっとも足かせになるのはなんだろうか。当然、強さとやさしさの逆の観念、すなわち、自分の弱さと、そしてズルさとが、それだ。そこで、と […]
人一倍認められたいと思っている男がいた。彼はしかし、認められるための努力など少しもしようとはせず、せっせと自分の思い付きを書き溜めては、楽譜にしたり、カンヴァスに描いたり、あるいは原稿用紙を埋め尽くしたりして、それをひそ […]
どうしても欲しくてたまらなくなって、男はパウル・クレーの絵を買った。買ったといっても、もちろん、レプリカで、しかも買うまで、それがクレーのそれだということも知らなかった。有名な「金魚」の絵なのだが、四隅にきちんと配置され […]
あなた、いま、いったいなにをしているんですか? と、問われて答えに窮したぼくは、おもわずとっさに、文学をやっている、といってしまった。いってのけたあとで彼女の顔を窺って、それで、あァ、しまった、と思ったが、もう、ずいぶん […]
H.ハヤシはまだ廻っていた。六月のある夕立の日に廻りだしたのだから、もうかれこれ三ヶ月以上廻り続けていることになる。もうそろそろ止まってもいいような気がするのだが、そうもいかなかった。どう考えてみても、止まる理由がみつか […]
先月、H.林は二十七歳になった。彼はこの歳で、いまだに学生だったが、もちろん、本人にしてみれば、けっしてモラトリアムの延長という気分でいるわけではなく、むしろ、日ごろ安易に流されてしまいやすい自分を鼓舞する背水の陣のつも […]
彼は、名をメティスといった。メティスは、つい、いましがた、劇場を後にしたところである。彼は、またしても公演の途中で劇場を後にしてしまった自分を呪った。劇が終わるまで座席に座る、という、ただそれだけのことが自分にはうまくこ […]