黄金の魚

literature
2006.12.16

どうしても欲しくてたまらなくなって、男はパウル・クレーの絵を買った。買ったといっても、もちろん、レプリカで、しかも買うまで、それがクレーのそれだということも知らなかった。有名な「金魚」の絵なのだが、四隅にきちんと配置された数匹の小さな金魚と、真中に鎮座する巨大な金魚が、たとえようもない清潔感を与えてくれる。モダンな額を買って、壁に飾ると、書きかけの文章が散らばった汚い部屋が、突然明るくなった。薄暗い光とほの明るい影の交錯がつくる文様が、男に異様な知的興奮を与えた。それまでまったく意味をもっていなかった、というか適当に散らばっていたそれらの紙片の配置が、突然意味を持ち始めた。机で踊る万年筆や、ピアノの上のコンパクトディスク。乱雑に詰まれた無数の書物や、折り重なった紙切れ。そのすべてが意味を主張している――いや、それらの散らかりは、意味というよりは、部屋を飾る、美しい装飾であった。部屋を整理しようという義務感に似た衝動は、とたんになくなり、むしろ、いかにその状態を保つかにありったけの気を配るようになった。

それから数日間、彼はほとんどものを食わず、その絵を眺めて暮らしていたが、母親から実家の留守番を頼まれて、ついに出かけることになった。約束の時間が迫ってきた。だがしかし、彼は絵の前から少しも動かず、ずっとそわそわして、時折思い出したように決然と時計の針に目をやることがあったが、退屈な等間隔にうんざりして、また目を「金魚」へと戻しては、あのそわそわを繰り返すのだった。

彼は思い立ったように立ち上がった。この絵を持っていこう。大丈夫、なんとかなるはずだ。彼は額の入っていた薄い段ボール箱のことを思い出して、絵を慎重に額ごとそこに収納した。そして注意深くその段ボールをゴムひもで縛ると、彼はそれをそっと持ち上げた。何回か軽くゆすってみる。よし、これなら大丈夫だ。彼は「金魚」とともに、ようやく家を出た。「約束の時間には、もう間に合わないな」と思ったが、しかしそれでも彼は満足だった。

彼はマンションの六階に住んでいたが、エレベーターで人に出くわすのを嫌って、階段で降りることにした。隣人とはいえ、そして数秒とはいえ、なんの共通の話題もない赤の他人であるひとと、狭い密室で二人きりで過ごすことがいかに気まずいか、賢明な読者ならば、きっとご存知のことだろう。彼はエレベーターで出くわした隣人との会話を想像した。きっと、彼はこの段ボール箱を不審に思うに違いない。そして訊くのだ、「そのなかには何が入っているんです?」と。男はうんざりした。やれやれ、これだから隣人というやつは油断ならない。彼ら隣人は別に箱の中に何が入っているかなんて、最初から興味などないのである。習慣の忠実な下僕であり犬でもある隣人というやつは、ただ、習慣から、そうやって何の気なしに話しかけてくるのだ。実際、あの手の輩は、通りすがりの人間になら誰にでも吠え立てる癖の抜けない番犬と同じなのだ。習慣には尻尾を、ぼくには怒声を、というわけだ。なにしろ、彼らのその問いかけは、「おはよう」と同じくらいの意味しかもっていないのに、こちらときたら、ちゃんとその問いに答えなきゃいけないんだからな! ……ああ、なんていう不公平だ、なんて非道いことだ。ぼくの大事な「金魚」のことを彼らに話してやらねばならないなんて、まっぴらごめんだ。習慣の肴にされては困るのだ。彼は帰って同居人にいうに違いない。「今日、エレベーターで**に会ったよ、それも大きな段ボール箱をもって。」「何が入ってたのかしらねえ?」「金魚だそうだ。」「あらそうなの。」男はわれながら自分の想像にぞっとした。習慣というやつは、なんと恐ろしいことか。取るに足らない、たんなる習慣が、これほどの悲劇をもたらすことになるなんて。ああ、ごめんだ、まっぴらごめんだ。……

突然、階段が彼の足元から消えた。いや、消えたわけではない。彼の革靴が、階段を掴むのに失敗して滑落したのである。彼の頭がもといた場所から十数センチほど下がったかと思うと、身体が突然重力の虜になった。だが、まだ彼にはいくばくかの余裕があった。左手の方が手すりに近い側にあったことをとっさに確認すると、ただちに左手に意識を込めた。だが、左手にはすでに先約があったことを思い出した。つまり、左手は絵を持っていたのだ。彼は諦めて右手を伸ばそうとしたが、右手は何も掴むことができなかった。彼は両手を胸鰭のように上下させているうちに、一番下までもんどりうって落ちていった。きつく閉じられた瞼を開いたとき、彼の目に一番最初に映ったのは、吸い込まれるような、灰色の冬の空だった。

彼は絶望的な気分になった。彼はほとんど大げさに失意の表情を顔に作ったが、その見事さといったら、どんな民族でも、あれは紛れもなく失意の表情に違いない、と言うほどのものだった。尻と肘を激しく強打していたが、そんなことよりも、問題は段ボール箱の中身だった。あろうことか、段ボールはちょうど彼の腰の下にあったのだ……。尻に残った恨めしい鈍痛が、というか、その痛さよりも、そこから想像される必然的な帰結が、彼の顔を半ば泣き崩れる形にした。段ボールのゴムひもをはずす震える指先が、クモの巣状にひび割れた額のガラスを確認した。ああ、ぼくの「金魚」よ、いとしい……。

しかし、幸運にも、「金魚」は無事、ひび割れた水槽の中を、何事もなかったかのように、悠然と泳いでいた。実際、何事もなかったのだ。彼は笑った。ああ、なんと幸運なことか。何事もない、ということほど幸運を感じさせるものも、そうはないに違いない。彼は隣人に感謝したいほどだったが、思えば、彼が隣人に感謝したいと思ったのはこれがはじめてだった。彼は再び絵を段ボール箱にしまいこむと、喜色満面で立ち上がって、朝露に塗れた外の空気を思い切り吸い込んだ。重くもなく、軽くもないその空気が、彼を包み込むのが、たまらなく心地よかった。彼は「金魚」を片手に、恋人に電話をかけた。かれこれ一週間以上会っていない恋人に、階段から落ちたことを話そうと思ったのだ。発信音を聞きながら、彼は「さっき階段から落ちたよ」と言えば、彼女はきっと心配するに違いない、と考えた。なぜなら、恋人はぼくのことを本当に心の底から愛しているからだ。かわいい彼女のそんな心配を少しでも取り去ってやるために、ぼくはこう言ってあげるつもりだ。

「なんてことなかったよ、階段から落ちることが、いったい何だって言うんだい?」

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