エチュード02 COCU

literature
2004.05.18

あなた、いま、いったいなにをしているんですか? と、問われて答えに窮したぼくは、おもわずとっさに、文学をやっている、といってしまった。いってのけたあとで彼女の顔を窺って、それで、あァ、しまった、と思ったが、もう、ずいぶん遅かったようだ。彼女は、ほう、そうですか、文学ですか、それはそれは、あなたすごいですね、と、まるでぼくの後悔を見透かすようにいいはなった。彼女が目の前の白い華奢なコーヒーカップの取っ手に蔓のように光沢のある指を入れるのを、ぼくはびくびくしながら見ていたが、たぶんそれは彼女がぼくになにか考える時間をくれたのだと思った。だから、彼女が手を動かし、コーヒーカップを唇につなげるまでの、線のような時間をいくらか両側に押し広げて、ぼくはぐるぐるといろんなことを考えてみた。

そしてちょうど、ぼくの精神が明治を通り過ぎて戦前にたどりついたころ、彼女はおもむろにこういった。ところで、“やっている”というのは、いったいどういうことですか、文学を書いている、ということですか、それとも文学の研究をなさっている、ということですか、と。ぼくは自分がやっているのが文学の研究かもしれない、と思って内心どきりとしたが、照れ隠しを装っているふりをして自分の動揺を隠しているふりをして、もちろん、文学を書いている、ということさ、といってみた。するとまるで何時間も前から罠の前で待ち構えていた獣のような目をして、間髪いれずに――だからこの文章は余計だ――彼女はこう言葉をつなぐ。それじゃあ、あなた、いったいどんな文学を書いているんですか、小説ですか、長編ですか、コントですか、それとも詩かなにかですか。さっきまでのぼくの優位はどこへやら、額に冷や汗が玉になって浮かぶ。こめかみへと移った汗が彼女に見えていないことをひたすら神に懇願しつつ、ぼくは首をうごかさないように、きょろきょろと目だけを動かして、なにかとっかかりのようなものを探した。

すると、彼女の左奥のヤニくさい壁にささくれができていて、むかしある女と別れたとき、思い余って、なにか詩のような、小説のような、なにか浮ついたものを書いたことがあったことを思い出した。それでぼくは、いくらか屈託を示しながら、詩を書いている、といってみた。矢のように韃靼のように、彼女はどんな詩ですか、と訊いた。追い詰められたぼくは、コキュになった男の話だ、といった。そしていってから、はた、と気が付いた。そうか、ぼくはコキュになったんだった。コキュになった男の詩ですか、それはまたずいぶん変わっていますね、詩なのにオチがあるんですか、と彼女。ぼくは、しょうがないから、ああ、そうなんだ、コキュになった男の詩なんだ、といっておいた。それはまた大胆なことですね、と彼女。ぼくは、コキュになった男の詩だから大胆なのか、コキュになった男というのが大胆なのかわからなかったので黙っていたが、彼女がすぐにつぎのようにいったので、後者であることがわかった。彼女はいう――結婚もしていないのにコキュだなんて、あなたにそんなものが書けるのですか、むしろあなたのことですから逆なんじゃありませんか、たくさん女を袖にしてきたんじゃありませんか。ぼくはその辛辣きわまる批評に自尊心を傷つけられて汲々としていたが、よく考えてみると、それは、ぼくがコキュじゃない、という意味になっていることに気づいて、なんだか嬉しくなってしまった。しかしそれなら、ぼくには文学を書く資格がないことになってしまうので、いいえ、ぼくはコキュなんです、といった。そしてこう付け加えるのも忘れなかった、だからぼくにはコキュの気持ちは痛いほどよくわかるんです、といっても、それと文学とは何の関係もありません、コキュ、というのは、ぼくの作り事なんです。だからぼくがコキュかどうかなんて、どうだっていいことなんです。すると彼女は嘲りの表情を目の奥に隠して、あらそうなんですの、それであなた、くやしくありませんの、といった。そりァくやしいですよ――といっても、もう遠い昔の話なのでよく覚えていないんですよ。たしかに彼女のことをミンチにしてやりたいくらいに憎んではいたはずなんですが――じっさい、最後に食べた彼女の料理はハンバーグだったように記憶しています――、それで裁判所に訴えようとさえ思ったくらいなんですが、いまとなっては、なんだか誇らしいような気さえするんです――いったいどういうわけだかわかりませんが。それでぼくは自分がコキュになったことを他人に話して回っているのです、なにか重大な秘密を告白するようにして。

その日のことで覚えているのは、家に帰ると、食膳のうえには豪勢な夕飯――もちろん、ハンバーグもありましたよ――がきれいに並んでいて、そして、まるで食事の用意のついでみたいにして、ぼくの荷物も玄関にきれいに並んでいたことです。玄関をくぐったときには少しも気づかなかったのですが、たしかにぼくのそう大事でもない荷物が全部並んでいました。そしてようやく自分のことがよくわかった気がしたんです、つまり、ぼくが数年にわたって蓄えてきたもちものがなくなったせいで壁や床にできた間歇が、ぼくだ、ということに、です。それでいま、ぼくは食事を終えて、荷物を抱えてここであなたとコーヒーを飲んでいる、というわけです。

おほほ、おかしい方、おほほほ、ところであなた、その詩にはわたしは出てきませんの、出てきますの。おかしなことを訊く。あなたが出てくるわけがないじゃないですか、それは昔の話です、馬鹿なことをいうもんだ――といおうとしたが、すこしは文学的になるかと思って、ああ、出てきますよ、といってみた。ところであなた、この喫茶店はどうやら戦後すぐにできたようですよ、ほら、そこのガラス窓に、since 1945とあります、それに今かかっているのはバッハのなんとかカノンですよ――戦後すぐにこんな洒落た場所があったなんて、なんだか不思議な感じがしますね、とぼく。あら、ほんとね、じゃあもう六十年近く経ったことになるのね、それでも、むかしはきっとこんなに洒落てなくてよ、と彼女。はい、そうでしょうね、昔は今よりももっと貧しかったでしょうから、カノンなんてきっとかかってなかったでしょう、とぼく。そうかしら、と彼女。そうかしら――ところで、六十年で一回りする、というのは今でも本当なんですの。ちょうど物心付いた人間の一生がそれくらいですから、そういうこともありえるでしょう。じゃあまた、新しい六十年が始まるのね――ところで、さっきから、あなたの右隣にいるのは誰なんですの、ずいぶんとお可愛い方ですけど、お知り合いの方ですの。それとも、偶然そこに座っているとでもいうおつもりなの。ぼくはふかふかしたソファと背中のあいだに冷たいものが挟まるのを感じたが、目の前のコーヒーカップを目で何回も数えて、それが二つしかないことを確認して、それから、なにをいってるんですか、コーヒーカップは二つしかありません、ぼくはさっきからずっと、あなたと二人で喋ってるんです、それはもう断じて本当のことです、といった。あら、そう――で、あなた、間男ってご存知? ええ、知ってますよ、もちろん。ぼくから妻を奪った男のことでしょう。知ってますよ、知ってますとも。知ってますとも! たしかやつは文学をやっていて、ひげなんか生やしてとても気障な野郎だったんです。髪型だって、やつは自由自在になるんです。それでたまたま彼女と故郷が同じだか高校が同じだかで――妻の故郷は北海道なんですが――気が合って、それで、ぼくの知らないあいだにいつのまにか、いつのまにか――そう、あなたの左隣に座っているそこの気胸もちで無精ひげの男とそっくりで――そうね、間男っていうのは、とても文学的だわ、すくなくともあたなよりはずっと文学的だわ――ところで、あなたの奥さんも、文学をやっていたのではなくて? そうだった――そういう気がします、それでぼくは文学なんて書いたんだ――すいません、ぼくだって文学くらい書けることを見せようと思って、それでコキュの話を書いたりしたんです――コキュだって、充分、文学的じゃないですか――そうかしら、そんなことは聞いたことがないけれど――ところでもうすぐ夜が明けるようですけど、あなたいったい、これからどうするおつもり?

ぼくは直射日光と鳩の鳴き声のユニゾンに眩暈を覚えながら、仕様がないのでちょうど一口分ほど残ったコーヒーを大げさに飲みほした。(完)

HAVE YOUR SAY

_