君について

literature
2008.08.08

君は、いつも真理を求めていた。真理にたどりつくにはどうすればいいのか、どの道をたどるのが正しいのか、いつも考えてきた。といっても、自分からそう望んで考えていたわけではない、それをどうしても考えさせられたのだ。先人たちはいう、われわれがたどってきた道と同じ道をたどれば、真理に至る、と。だが、若い君には、どうしてもそうは思えなかった。

先人たちはいう。たしかに、われわれとて、真理にたどりついたわけではない、と。依然として、われわれもまた、君と同じく真理に至る途上にあるのだ、と。だが、君がこだわっているのは、そこへ至る道のことだった。あなた方は、まだ、真理にたどり着いていない、という。君には、彼らが、どういう権利で、自分たちと同じ道を歩ませようとするのか、わからなかったにちがいない。なぜなら、彼らが影でこんなことを言っていることを、君はよく知っていたからだ。「われわれは、真理になどたどりつけない、にもかかわらず、そこを目ざして進むことこそ、知識人のあるべき姿だ」。彼らは、どういう権利で、それを真理への道だと称するのだろう……。

誰しもが、真理を目ざす途上で、壁にぶち当たる。それは、自己という壁である。真理が自己のものであるかぎり、真理は真理の顔をしてくれないからだ。だから彼らは、やすく諦め、諦めをやすく共有する。そうして共有された諦念は、このうえなく民主的なものだ。すべての人間が諦めればよい、諦めること、それが真理だと、前もって決めておけばよい。彼らは、その限界=臨界を、仰々しい身ぶりで《批評的》真理と呼び、それ以外のものを、すべて虚構と呼んだ。

事実なのか、嘘なのか、そこにばかりこだわり、所定の手続きを経て事実と認定されれば、すべて同じ値段をつけて売りさばく商人たちがいる。彼らは、目を覆うような悲惨な事実にも、味気ないという点で有害な事実にも、つまりあらゆる事実に、同じように真理という値段を貼り付けた。あの忌まわしい戦争の記録と、性や殺戮を弄ぶ子供向けのコミックが、同じ書棚に並び、研究者はあらゆる対象を同じ紙数のなかに収めることを誇らしげに語る。彼らは、過去の栄華の残照を自身の功績と信じ、最後の輝きを絶頂だと信じた。そして、その残照の照らし出す事実にすべて我が物顔で同じ値札を貼り付けていった。そんな商人たちを尻目に、君は、本当か嘘か、ということよりも、もっと大きなものがあるのだ、と、薄々感じ始めていた。君だけではない、多くの若者たちが、時代の尖端で、そうした疑問を感じていた。世界には、嘘ばかりが溢れている、とはよくいったものだ。もちろん、君も同意するだろう。だが、君は、ほかとは違っていた。だからといって、事実にすがりつけという大人たちには、どうしても従えなかった。ただ事実であれば値がつき、嘘と認定されればとたんに棄てられてしまう、はかなくも美しいものがあるように感じられたのだ。嘘だけではなく事実もまた、同じように世界には溢れていたのだ。どうして、こんなに事実ばかりが溢れているのだろう!

真理は、美しいものでなければならない。生は、死と同じように、美しいものでなければならない。事実も、嘘も、すべてが真理に至ることがある。君はいつしか、そういうことを考えるようになった。そして君は、わたしになった。君は、いまもわたしのなかで、真理を求めて道を探し続けている。わたしは、君の声を聞くたびに、昔のことを思い出す。君はどうして、先人たちの言葉に従おうとしなかったのだろう? そうしていれば、君はもっと楽にできたはずだし、わたしになど会わずに済んだはずだ。だが、君は、限界を越えたかったのだ。自分の息の混じっていない、外の空気を吸いたかったのだ。

いや、そうだろうか? そうではない。君は、もっと大きなものに突き動かされていただけなのだ。だから、笛に踊らぬ世界に絶望したりはしなかったし、快楽のうえで狡知を操る円転滑脱な皮肉屋になることもできなかった。君は、なによりもまっすぐな枝になろうとして、君の行く手を遮るすべてを迂回した。そして、世界という広大な版図の片隅で、のたくりながら伸びる奇妙な枝になった。そうしてのたくりながら、君は、ゆくりなくわたしと出会った。君はわたしになった。

君は、ときどき不機嫌になった。そんな君の顔を見るのが、わたしは寂しかった。だが、君よ、怒ってくれるな、わたしは、君のそんな不機嫌な顔が、好きなのだ。その寂しげな表情が、わたしの気分を安らげてくれる。そういうときの方が、君の声が、よく聞こえる気がするのだ。きっと、わたしたちは、正しい道を歩んでいる。だから、そんな顔をしなくてもいいのだと思う。そして、わたしは、君が悲しむようなことは、絶対にしないと約束する。

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