音楽で革命を起こそう

literature
2008.11.28

「音楽では革命は起こせない、というのを最近知ったよ。若い頃にはそう思っていろいろやったけどね。音楽はひとを教育する。それはとても国家的な教育なんだ。だから、いつも教育してしまう音楽を、なんとか別の方向に持っていければ、それで革命が起こるんじゃないかって、本気で思ってた。だけど、それは若い頃の話。そう……いまから三十年くらい前の話。……だけど予示的に別の、革命的な世界を想像し、構想することはできる。未来にあるべき世界をいまここで想像する。それが大事だと思っているよ。」
「かのようにの哲学?」
「まあ…そういうことになるかな? 言葉にするとつまらないんだけどね。」
「うーん……。あなたまでそんなことを言うとは驚きです。ぼくはあなたは違うと思っていました。」
「どういうこと?」
「いや……音楽で革命は起こせるってことです。」
「そう?」
「はい。起こせますよ。絶対。ルソーは、言葉を音楽にしようとしていた、とドゥルーズ=ガタリは言っていたと思います。それをぼくはこう理解しています。ルソーにとっての革命とは、言葉を音楽として扱うことだと。」
「ふん……君、おもしろいね。」
「はい、たまに言われます。」
「うん……つづけて」
「革命って……つまり閉塞を打破する、というのは、政権を打倒することとは異なると思うんです。もちろん、それも含まれるんですが、それだけじゃない。それでぼくは、労働者が本気で穴を掘れば、もう革命だと思うんです。道路の真中に大きな穴が開く。それで世界は変わる。ただその労働者が本気で穴を掘らなければ、たとえ道の真中にぽっかり穴が開いたって、革命じゃない。」
「意図次第ってこと? 精神主義? ロマン主義じゃない?」
「いや、ちがいます。ロマン主義じゃない。だって、道路の真中に穴が開くんですよ。それって革命でしょう。問題は、そこに必要な精神があるかどうか、です。道路に穴があいても、そこに精神がなければ、ただの穴で終わってしまう。新たに埋められて、それで終わりです。だからぼくは、音楽家が本気で……“かのように”なんて言わず、本気で音楽を演奏したら、それは絶対に革命なんですよ。音楽は、それ自体が、政治的なものであり、革命的なものです。道路に空いた穴とおんなじです。だけど、そこに必要な精神がなければ、音楽は、国家的なものという最悪の教育を残してぼくらの耳から耳へ通り過ぎていくだけです。新しい平らなアスファルトで埋められて、自動車に乗っている連中が国家に感謝する。それで終わりです。むかし、革命芸術と芸術革命についての花田清輝と高見順のくだらない論争がありましたが――いや、くだらないというのは、花田がくだらないというんですが――高見の方が圧倒的に正しいんです――ともあれ、芸術は革命を起こす。それは労働者の本気の労働と同じことです。」
「君、おもしろいよ。」
「はい。たまに言われます。……ぼく、花田とちがって、マンガやアニメは嫌いなんですよ。くだらない。馬鹿じゃないかと思う。いい大人がなにやってんだ、って思いますよ。」
「そうだな。それは同意だ。君のような若いのはめずらしいよ。」
「そんなことありません。ぼくの周りにはいっぱいいますよ。世間がそういう若者を見えなくしてるだけです。情報って、そういうもんです。」
「そう? こっちにはあんまりいないよ、そういうの。みんなマンガとか大好きでしょう。」
「そうですね。みんな、結局、気楽なのが好きなんですよ。おもしろくもない労働に精神を費やしている大衆が求めるひとときの憩い。それで、マンガ読んで、回復した“かのように”考える。べつに、日々に疲れたらマンガくらい読んだっていいですよ。テレビ見たっていい。だけど、そういう思考自体が疲労をもたらしてるってことも、真理ですよ。外でマンガとかアニメとか言ってる連中は、自分は疲れてるんです、って言って回ってるようなものですよ。ほんとにくだらない。マンガなんて読んでるのは、疲れた大人だけだってことを、もうちょっと深く考えなきゃいけない。そこにどういった哲学があるのか。社会に疲れるということ、革命なんて起こせないと認識することが大人になることだと考えてるような連中は、こぞってマンガ読むんですよ。社会に疲労している大人こそ! というわけです。子供なんて、誰も読んでませんよ。マンガは。いまでは大人が反革命のために子供にマンガを読ませてるんだ。」
「そういう考え方もあるかね。」
「話を戻しますが……。」
「いや、わかった。ぼくも考え直す。音楽で革命を起こすよ。」
「あれ、まだいろいろ言い足りないんですが。」
「いや、あっちで話を聞こう。君の話はおもしろそうだ。」
「そうですか。とにかく、音楽のような労働があり、そんな労働は、革命を起こします。絵画のような労働があって、それも革命を起こす。音楽のような音楽だって、なければ嘘です。音楽のような音楽があれば、音楽は、革命を起こす。そこに必要な精神がなければ、すべて、“かのように”で終わってしまう。……ニーチェは、カントのようには考えなかった。自分が三十いくつになって、父親が死んだ年齢を超えて晩年を迎えても、彼はそれでもこう言ったんです。ひとは、超人にはなれなくても、超人の親にはなれる、と。自分が革命を起こせなかったからと言って、晩年に“かのように”の哲学に走るひとはよく見かけます。革命なんて起こせない。革命が起こる“かのように”考えるのが正しいって。だけど、そんなの間違ってる。自分が革命を起こせなかっただけじゃないか。次の世代は、音楽で革命を起こすかもしれないじゃないか。みんな、“かのように”なんて言わずに、超人の親になろうとすべきなんだ。」

7 Comments

  • tyoshinaga

    2008年12月2日(火) at 2:14:34 [E-MAIL] _

    小説の続き

    C「この会話はエピクロス派とストア派の必然性と運命の考え方の違いに関わっている。エピクロス派は原因性なき運命、そして自由を、必然性しかあり得ないように見える中で思考しようとする。その音楽家は各原因系列に影響する偏角でもって、物質的原因系列の複数性と偶然を肯定しようとする。だから彼は、音の複数性にこだわるがごとく、反グローバリズム運動に、そしてマルコス司令官に注目する。非常に小さな積み重ねや曖昧さの中でずれていくものを求めようとする。問い続ける身体。あるものを否定して切り捨てていくのではなく、あるものようだけど違うものになっている、ようなことをやろうと未だしている」

    「一方、君はストア派だ。因果関係にまったく新しい割れ目を入れようとしている。出来事。言語の使用の問題。使用がなければ、表象は生命と意味を剥奪されたままだ。君は自己自身の肉体において実現することを意志する。「学説は傷以外のどこから出てくるというのか。また挑発的例示によって充電された思弁的逸話でもある死活に関わる警句以外のどこから出てくるというのか」ある出来事を求めた人間は無謀に断言する。「出来事がわれわれに作り出すこの意志に到達すること、これが「世界市民」である」

  • tyoshinaga

    2008年12月6日(土) at 14:55:22 [E-MAIL] _

    こんにちは。
    >革命芸術と芸術革命についての花田清輝と高見順のくだらない論争

    いつ論争したっけ?いわゆる「モラリスト論争」のときかな?埴谷雄高とも論争したときのやつ?

  • kio

    2008年12月20日(土) at 2:08:26 [E-MAIL] _

    すいません、遅くなりました。放置していたわけではないんですが、調べ直すのが億劫で結果的にはそうなってました。

    えー、1955年4月の別巻『文学界』に載った花田の「反俗的俗物」を契機としたちょっとした論争です。そのあと高見は『群像』同年8月号でなんか書いてます。まあ、はっきりいって、ここでの花田はだいぶやばいとぼくは思いますが、世間的にはそうではないようなんだな。

  • tyoshinaga

    2008年12月22日(月) at 1:22:41 [E-MAIL] _

    どうも、ありがとう。調べていたとはすみません!時間とらせました。花田から見れば、吉本隆明との論争に流れ込んでいくやつですよね。他にも荒正人なんかも加わっている。
    花田のやつは全集で読んだなあ。面白かった気がするけど、高見順のは読んでない(笑)荒正人・高見順・埴谷雄高と、一くくりにするのは、理不尽ですね。
    面白い視点があるかもしれません。

    ところでこれ読みました?
    http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081219

  • kio

    2008年12月22日(月) at 9:57:12 [E-MAIL] _

    >ところでこれ読みました?

    激しいですね(笑)。デリディアンのようですが、まあ一理あるかと。

    ぼくは歴史に埋もれた「痕跡」なしの(ヴァーチュアルな)他者がいることを確信してます。そういう確信なしに、いまや消えかけている歴史上の出来事について判断を下すことは不可能ではないでしょうか。痕跡を残すことにみなさん躍起になってますが、ぼくはその点はもっと絶望しています。歴史の出来事を確定的に存在証明してくれるような痕跡は、よほどの幸運がないかぎり残らない。歴史学者を見てればよくわかる。歴史学は、その本質からいって、どんどん存在をあやふやにしちゃうものです。だけど、それでも大丈夫。痕跡なしの他者が、いるのです。コローのニンフ(妖精)のようなものです(笑)。

    痕跡に囚われること、言い換えれば記憶に囚われることは、そうしたヴァーチュアルな他者を見えなくしてしまう。記憶の頚城を逃れる、ポジティヴな「忘却」というものがある、というのがぼくの意見です。

    デリダ主義の議論では修正主義者とのやりとりは堂々巡りになるだけのように思います。「痕跡」だって、本当は、治癒のプロセス、つまり新しい経験だとみなきゃいけない。傷の治癒を「痕跡」とみるその視線は、かなりナイーヴなカント主義だと思います。要するに、いったん、「痕跡」からかつての傷を仮構することなしには、「痕跡」という表現はできないんだけど、テクストの外部はない―つまり「痕跡」からかつての傷を仮構することはできない、となる。デリダにおなじみの論法ですが、これって、カントの超越論的統覚と同じじゃん?

  • tyoshinaga

    2008年12月22日(月) at 13:27:58 [E-MAIL] _

    いや全然デリディアンじゃないですよ。
    田中さんが今こだわっているものとは全く関係のない文脈です。
    むしろ、田中さんがデリディアンだと想定されています。
    これを参照してください。けど興味なかったら、別にいいです。スルーしてください。
    http://coleopteran.seesaa.net/
    http://d.hatena.ne.jp/sinnerlife/20081219/1229694524
    http://d.hatena.ne.jp/toremoko/

    【目撃】東工大授業前の騒動
    http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128/p1
        ↓
    http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
        ↓
    http://www.hirokiazuma.com/archives/000466.html
        ↓
    http://d.hatena.ne.jp/toled/20081212/p1
        ↓
    http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081212/1229060746
        ↓
    http://d.hatena.ne.jp/toled/20081213/p1
    http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081213/p1
    http://www.hirokiazuma.com/archives/000470.html
    http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20081216/1229424581

    【レポ】東工大の授業 「ポストモダンと情報社会」2008年度 第09回
    http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081212/p1

  • kio

    2008年12月23日(火) at 12:14:44 [E-MAIL] _

    それは知りませんでした。
    ちなみに南京大虐殺はあったに決まってます。従軍慰安婦もです。存在/不在を資料で実証することは究極的には不可能だし、逆に言えば、そういう究極的な答えを求めるのであれば、なにを調べても仕方がない。豊臣秀吉は本当は存在していない、だとか「あなた」は存在していない、だとか、そういう究極的かつ形而上学的なレベルでなら議論できるけど、やっぱりしても仕方がない。いずれにしても、「なかった」という議論からは、なにも生まれません。こういう言い方は誤解を生むだろうけど、率直に言って、「ある/なし」はどうでもいいんですよ。「あった」という前提で、問題は、次なんです。つまり「どうするべきか」なんですよ。

    デリダ主義の議論がハーバーマスに落ち着くのはわかりきったことだし、そうなると、「なかった」という議論も公共の議論のなかに入れざるを得ない。そういう意味では、上で俎上にのぼっている人の意見は、それなりに真摯なデリディアンだと言えるってことじゃないですか。

HAVE YOUR SAY

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