第二十七エペイソディオン(1)

literature
2003.06.23

先月、H.林は二十七歳になった。彼はこの歳で、いまだに学生だったが、もちろん、本人にしてみれば、けっしてモラトリアムの延長という気分でいるわけではなく、むしろ、日ごろ安易に流されてしまいやすい自分を鼓舞する背水の陣のつもりでそうしているのだ。他方で、結果的にいま現在がそういう状況――つまりたんなるモラトリアムの延長であると、他人に解釈されても仕方がない、ということを、本人が否定することができないだろうことも、よく理解していた。しかし、そこで彼は一回転してこう考える。けっきょく、モラトリアムかどうかを判断するのは、つねに本人であり、自分がモラトリアムではない、と言えばそうなるのだ。と、ここまで考えて、しかし、こうしてひとつところで独楽のように回転しながら立ち往生している自分をみると、やはり自分がモラトリアムをひたすら享受していることを思い知らされるのだった。

Hは、そうして独楽のようにぐるぐる廻りながらも、ずっと懸念していたことがあった。彼は、二十七年の人生のあいだで、一度も万引きをしたことがなかった。これまで何台も自転車を盗まれたことはあったが、盗んだことはただの一度もなかった。たしかに、放置されていた自転車を拾って乗り回していたことはある。だがもちろん、これは盗みではない。厳密に言えば、盗みかもしれないが、しかし、それは、春に種籾をまき、秋を迎えて生長した苗が種籾の数百倍の実をつけたとき、その収穫を大地からの盗みである、というのとあまり変わらない。Hの考える盗みとは、店に陳列してある商品を盗むことだ。ジュネが言ったように、そのとき、全世界がHの一挙手一投足にその視線を注ぐはずであり、そうしてはじめて、モラトリアムなどというくだらない円環から脱出する切符を得られる算段になっていると考えたのだった。

次第に傾きつつある陽光に急き立てられながら、堤防の小道を肩を怒らせて歩いていると――歩くときはいつもそのように歩かないといけない気がするのだった――、太陽の反対側から驟雨が彼を襲った。彼はあわてて路地を挟んだ向かい側の本屋のアーケードの下に入った。自動ドアの赤外線が彼を感知し、いらっしゃいませ、と扉を開放した。彼は自分の縮れた短い頭髪が吸った雨水を眉のあたりに感じながら、輪郭をはみ出したまだらな色彩に目をくらませた。

いまこそ、そのとき。Hはそう考えた。独楽だって何かに当たって跳躍するときがある。彼は目だけをぎょろぎょろさせながら、店内をさりげなく一周し、できるだけ店員に見えない場所の本棚に向かった。確認したかぎり、三十六台のカメラが天井や本棚の隙間などにすえつけられており、しかも、レジ・カウンターの奥には事務所に通じる入り口があることも確認できた(Hの慧眼は、ほんとうに小さな隠しカメラの存在をも見逃すことはなかった)。Hの立ち位置の都合上、入り口の奥は積み上げられたダンボールの影になっていたが、それでもカメラの映像を映すモニターをじっと眺める別の店員の姿を想像することができた。店員は丸い品のよい眼鏡をかけていた。眉のうえに切り揃えられた前髪がいかにも清潔感を漂わせている。モニターの真下で組まれた白い二本の足は少し場違いだった。あまりトラッキングのよくない白黒の映像に映る自分が、首を真正面に向けたまま、目の前の本の背表紙に二本の指をかけている。たったいま、親指を本のあいだにはさんだところだ。眼鏡をかけ、青いギンガムのシャツにデニムのジーンズをはいた自分の姿はあまりに凡庸に見えた。三十六個のモニターのうち十八個に、青いギンガムシャツの凡庸な青年が凡庸に背表紙に手をかける凡庸な姿が映っていたが、そのなかのひとつに、棚の向こう側に、Hといっしょに中学生くらいの少年が映っていた。少年はカウンターを何度もうかがいながら、うつむいたと思うと、肩を不自然に揺らし始めた。そのまま一分間肩を揺らしつづけた。不意にカウンターを一瞥すると、振り向きざまに手にかけた雑誌を黒い手提げかばんに闇雲に突っ込んだ。裏表紙がかばんをはみ出して折れ曲がり、手は真っ黒に充血していた。Hはそこになにか法則のようなものを認めたように思ったが、一瞬のち、モニターはビデオカメラから送られる電気信号との同期に失敗し、時間軸を見失った映像は丸まった画面を垂直に滑り落ちていった。ブラウン管の表面に三十六人の同じ顔の店員の影が映った。

少年はカウンターにいた匿名性のやけに高い店員に馬鹿丁寧な口調で呼びとめられ、Hは驟雨を吸って黒くなった堤防の小道を歩いていた。夕陽に右半身を染めて歩く彼の手には一冊の本が握られていた。彼は、背中を鞭でしたたかに打ちつけられた人間がしばしば見せるような、笑っているとも泣いているともつかない表情を頬に張り付けていた。胃が空腹を訴えて『ぐう』と鳴った。誰かが雨上がりの草いきれのなかで下手なトランペットを吹かしていた。歩きながらぱらぱらと頁をめくり、止まったところで文字を眺めたが、確認する間もなく、湿った音を立てて勢いよく本を閉じると、左手に広がる黒い水面に向かって放り投げた。それは思ったよりもずいぶん近くに着水し、扇形の波紋を残して川底に消えた。またトランペットが鳴った。振り返ると、さきほどの本屋の少年が立っていた。輪郭だけがオレンジ色で、あとは真っ黒だった。少年は、Hに向かって次のように言った。Hが一瞥して読むのを止めた頁に書いてあったことかもしれない。

「君はこの遊びにも規則があると考えるかもしれない。でもそんなものはありはしない。そこで君はそんなものはありはしないと考えようとする。でもだからこそ、この遊びにも規則があるんだ。だって君はまだ子供で、これが遊びだってことを、大人のための遊びだってことを、知らないから。それとも君はもう大人で、これが子供の遊びだってことを、忘れてしまったから。この遊びがどんなものか、定義はいろいろあるけど、二つか三つあげてみようか。他人という鏡に自分をうつして見つめること。世界と自分自身をすばやく、そしてゆっくり忘れ、そして知ること。考え、そして語ること。おかしな遊び。人生そのものだ。」

Hは泣き出した。そして本当に独楽のようにぐるぐると廻り出した。(つづく)

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