われわれの思考は、アドルノやデリダ、そしてハバーマスのあいだで揺れ動いている。弁証法に反対する人も、賛成の人も、結局は、彼らのつくる三角形のなかで藻掻いているにすぎない。全体化に強く反対したアドルノが、差異化の運動そのも […]
古代ギリシアはキオスのストア派哲学者、禿頭のアリストンは、こう言ったという。 最良のもの(徳)と、最悪のもの(悪徳)とについてだけ関心をもち、その中間のものにはどちらでもない態度をとる。それこそ、人生の目的(テロス)であ […]
古代ローマのストア派哲学者であり、劇作家であり、また皇帝の家庭教師でもあったセネカは、学問についての二つの大きな区分に注意を促している。《文献学》と、《哲学》とである。ギリシア語でいえば、前者はフィロ‐ロゴスであり、後者 […]
わたしたちが普段何気なく、そして区別しつつ用いている言葉に「想像力」と「記憶力」とがある。いずれにしても、不在のものの現前という意味では同じものであろう。いまここにないものを現前させる、そうした力こそが、この二つに割り当 […]
言葉は、それが言葉であるかぎり、きっとなんらかの対象を持っているはずである。対象というのは、要するに、出来事であるとか、物であるとか、そういうもののことである。たとえば、「海」という言葉は、現実の《海》を指示しているはず […]
歴史にとって出来事とはなにか……。この問いに答えるのは容易ではない。わたしはもはや、歴史にはうんざりしているのだが、それはこの装置が徹頭徹尾反復の装置だからである。たしかに、最初の反復には意味がある。意味……。いい加減勘 […]
今日、わたしたちが直面しているのは、人類は《炎》を捨て去ることができるのか、という問いであるように思われる。たとえば不運なハイデガーの語った《炎》は、ユダヤ人を焼き尽くそうとしてナチスの放った炎と、結果的にはほとんど同義 […]