芸術について――認識論を超えて

philosophy
2008.09.05

古代ギリシアはキオスのストア派哲学者、禿頭のアリストンは、こう言ったという。

最良のもの(徳)と、最悪のもの(悪徳)とについてだけ関心をもち、その中間のものにはどちらでもない態度をとる。それこそ、人生の目的(テロス)である(1)

「人生の目的」とは、いかにも大げさに聞こえる。しかし、この宣言はとても興味深い。というのも、最悪のものは、最良のものと同様、関心を払うに値するものということになるが、関心という点からすると、最悪のものは、最良のものと同様に、優れたものでありうるからである。ひとは、つねに、最悪を回避しようとする。最良をその手に掴む《実践》よりも、最悪を回避する《非-実践》を優先する。この《非-実践》が実践する生産こそ、《中間のもの》である。《中間のもの》について、判断しないという彼の宣言は、裏を返せば、じつは本当に回避せねばならないのは、《中間のもの》であり、そして避けるのがもっとも困難なものこそ、《中間のもの》である、ということにほかならない。《中間のもの》を避けるのが容易であるならば、それは、目的(テロス)というほどのものではなくなってしまうだろう。

しかし、それは不思議なことだ。本当に避けるべき最悪のものは、最悪のものではなく、むしろ、《中間のもの》である、ということになってしまうからだ。われわれが選び、そして掴まされているのは、じつは、いつも、避けるのが困難なこの《中間のもの》である、ということだろうか。アリストンのこの含蓄のある宣言は、この《中間のもの》こそ、批判に値する、最悪のものなのではないか、という疑問に、われわれを導いてゆく。《中間のもの》を自ら選ぶ《非-実践》、選択ならざる選択を避けねばならないのは、それが、ひとを、知らず本当に最悪のものに導いてゆくからなのではないだろうか。

柄谷行人は、芸術に関して、次のようなことを言っている。すこし長くなるが、ここに引用する。

ここであらためて、カントの芸術論について述べてみる。カント以前の古典主義者は、芸術性が客観的な形態にあると考えており、カント以後の浪漫主義者は芸術性が主観的感情にあると考えた。しばしば、カントはロマン主義者の先行者と見なされるが、実際には、彼はその二つの「間」で考えたのである。それは彼が経験論者と合理論者の「間」で考えたというのとまったく同じである。むろん、彼はそれらを折衷したのではない。彼は、認識を認識たらしめる根拠を問うたように、芸術を芸術たらしめる根拠を問うたのだ。ある物が芸術であるか否かは、それに対する他の関心を括弧に入れることによってのみ決まる。それが自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がない。それらに対する通常の諸関心を括弧に入れて見るということ、そのような態度変更が或る物を芸術たらしめるのだ。

…われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。そのときにのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のだ。

柄谷行人『トランスクリティーク』岩波書店、2004年、172-4頁。

たとえば、或る人殺しがいるとします。それは、法的・道徳的に非難されますが、同時に、それは趣味判断の対象です。映画や小説では、しばしば犯罪者やヤクザが主人公となります。人々は、日常では嫌悪するはずなのに、映画や小説では、彼らを支持し、自己同一化したりします。これは美的判断です。その根拠を、カントは「無-関心」性に求めました。それは、道徳的・知的関心を括弧に入れることです。人がこのような映画や小説を楽しむというのは、――あるいは時には、現実の事件に関してもそのような見方ができるということは、――実は、そのように文化的に訓練されたからです。

同『倫理21』平凡社、2000年、65頁。

……。こうした芸術の定義は、よく聞かれる。おそらく、アカデミックな世界では、きわめて中心的なものであるだろう。もちろん、それらにもちがいはある。すなわち、柄谷のそれは、きわめて意識的に選び取られたものであり、アカデミックな世界においては、きわめて無意識的なものである。そうした差異を認めるとしても、結果的には同じものである。芸術(美)は、道徳的(善)・知的(知)関心を括弧に入れることによって、成立する。それは、一般にも受け容れやすいものだろう。裏を返せば、映画や小説であれば、殺人も、近親相姦も、つまり道徳に反することも、非政治的であることもなんでも許される、ということだし、また、一般にもそうとみなされていると思われる。《芸術の世界で殺人が許されるのは、それが、道徳的な関心とは無縁の美的世界でなされるからである》。

だが、芸術が具体的に実践される場面においては、そんなことは不可能である。かりにも芸術がなんらかの《実践》であるならば、括弧に入れたり外したりできるような、そんな認識論上の《関心》など、まったく歯が立たない。芸術家が現実に作品を作りあげる場面においては、同時代の道徳や政治と無縁でいることなど、絶対に不可能だからである。泉鏡花の優れた自然主義文学批判にしたがうなら、《芸術の為の芸術が、たんに芸術の為だけの行為であることはありえない》のである(2)。したがって、わたしなら、《芸術の世界で殺人が無条件に許された試しなど、ただの一度もない》と言うだろう。括弧のなかであればある行為が許され、括弧の外であればその同じ行為が不可能となる、という思考は、いくら認識論的に許されはしても、現実的ではない。

柄谷の芸術論が陳腐なものに(わたしには)みえるのは、結論だけを取り出すからだ。柄谷の芸術論は、通例のアカデミズムからは一線を画している。そういう意見もあるだろう。柄谷は、ときには括弧をはずしてみること、「態度変更」が重要だと言っているではないか……。だが、わたしには、それも含めて、もっとも洗練されてはいても――そしてだからこそわたしは論じるのだ――、アカデミズムの枠からは出てこない芸術論であるとしか、考えられない。

時と場合に応じて、括弧は取り外さねばならない、という。たしかに、括弧に入れられる以上、外すこともできるべきだろう。しかし、この「時と場合」が具体的にどのようなものか示されない限り、そしてどのみちこの外在的な条件に依存しているかぎり、この括弧にまつわる理論は理論としてはつねに不完全である。つまり、カントが一時そうしてしまったように、その判断を常識(共通感官)に仰がねばならなくなる。だいいち、われわれは芸術の芸術性を、たんに美的関心のみによって評価していたりするだろうか。本当にそんなことが可能なのだろうか。完璧に邪悪で、しかも嘘八百であり、なおかつ美しいものなど、存在するだろうか。一方を否定することで成立するような、そんな閉ざされた論理構造のなかに、芸術ははたして存在したことがあったのだろうか。それに「態度変更」といっても、結局、別の括弧に依存するのなら、もうひとつの同じ大学ができるだけではないのか。

柄谷は、こうした認識論主義の芸術論を説明するとき、よく、マルセル・デュシャンの『泉』を引き合いに出す。トイレを『泉』と題して美術館に出品した、あの果敢な作品である。彼はそれを自説を補強する材料として、次のように説明している。

古典主義美学〔美を客観的なものとする〕やロマン主義美学〔美を主観的なものとする〕が古くさくなっても、カントの「批判」は少しも古びていない。たとえば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術館に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのだが、それはまさにカントが提起したポイントの一つであった。すなわち、物をそれに対する日常的諸関心を括弧に入れて見ること。もう一つのポイントは、美的判断には普遍性が要求されるにもかかわらずそれがありえないということ、われわれが普遍的と見なすものは歴史的に形成された「共通感覚」にもとづいているということである。

前掲『トランスクリティーク』、172-3頁。

トイレが美術館に作品として提示されていることが、トイレを美的に、つまり芸術として《構成する》、というのである。要するに、芸術は、ひとがそれを「芸術」としてみる認識にかかっている。たんに既製品であるトイレが、美術館に飾られているということ、それがトイレを芸術作品として見せてしまうのだ、ということらしい。だが、本当に、そのことだけが、『泉』を芸術作品にしているだろうか。この説明であれば、別にそれがトイレである必要はなかったことになる。ティッシュでもディスプレイでも、いわゆる美術品とは見えないものであれば、何でもよいのだから。だが、そのカント的な見かたは、デュシャンの『泉』の評価として不十分である。それだけでなく、結果として、この芸術論の射程の浅さをも示してはいまいか。

デュシャンの『泉』からわれわれが受ける印象の強さは、たんに日常的に使用される既製品が美的に隔離される、ということだけに存していない。どう考えても、《ほかならぬトイレである》という点から発生している。この倫理的・自然的必然性が、デュシャンの『泉』を芸術作品にしていると考えるほうが、わたしには説得的に思える。柄谷の用語でいうなら、美術館に置かれている、という事態によって発生する美的関心のみならず、普段の生活で、ひとがあるやり方で使用する「トイレ」であるという日常的諸関心も含めて、芸術として成立しているのである。はたして、既製品であればなんでもよい、というようなコンセプチュアルな「批評」的論理だけで芸術が成立するものなのだろうか(実際、柄谷のような論理で、今日では「芸術」が大量生産されているのだが)。私見によるなら、デュシャンの『泉』がかろうじて芸術作品として成立しているのは、人の手に塗れたこの既製品が、にもかかわらず、トイレであるという点によって、もっとも《自然》な領域に接続しているからである。たとえば絵画という人間的なものが、にもかかわらず《自然》の一端にじかに触れることによって、芸術作品になるように。繰り返せば、トイレは、人工物であるにもかかわらず、言葉の真の意味で、《自然》と接触するのである(この作品は、ある点において田山花袋の『蒲団』と肩を並べるものだろう)。

一方には、美が、客観的な実在として存在する、という芸術家(1)がいる。また、他方には、美は主観的な精神として存在する、という芸術家(2)もいる。カントは、その両者のあいだで思考した。といっても、カントは、ヘーゲルのように両者を折衷した(3)のではない。ただ、条件に応じてどちらをも批判した(4)。……

そもそも、美が客観的実在であるなどといっている芸術家も、徹頭徹尾主観的なものだといっている芸術家も、わたしには探すのが困難である。具体的に誰のことを言っているのかはっきりしない。だが、こうした意見が(特に分類好きの批評家や芸術史家のなかで)あるのはわかる。哲学史的にいえば、一方はヒュームであり、他方はデカルトであろう。そしてヘーゲル的にそれらを弁証法的に折衷したわけではなく、両者を臨機応変に批判したカントが、賞賛される。あるときには美的な関心を括弧に入れて、道徳的な関心から法的に「審判」し、またあるときには、道徳的な関心を括弧に入れて、美的な関心から芸術的に「批評」する。これをトランスクリティークという。こうした関心と括弧と判断の外側には、《自然》の世界が広がっている。だが、それはわれわれには不可知の、《物自体》の世界である。こうした態度変更を促すのは、この《物自体》をなんらかの形で(つまり「仮象」として)表象させる、感官(感性)と接続した想像力である、というのだが、とはいえ、われわれの感官は、《物自体》とは隔離されている、ともいう。

柄谷の意見がまちがっているとはいわない。そもそも、議論としてはあまりに不十分であるから。ただし、彼は、そしてもし彼の意見がカントから出ているのだとすれば、二人とも、「芸術」という用語を使いながら、ただの一度も芸術については論じていないと、わたしは思う(ただし、わたしはカントを柄谷のようには読まない)。大学という括弧のなかでだけ通用する、おしゃべりであるように聞こえる。

かりに芸術の世界では人殺しが許されているとして(美的括弧のなかの世界)、また《現実》には人殺しは許されていない(美的括弧を取り除いた道徳的括弧の世界)として、ならばいったい、芸術は、《現実》にはなにを行なっているのだろうか。芸術が《実践》することなく実践している非現実的認識論の世界は、いったいどこに《ある》のだろうか。そもそも、芸術家は、殺しているようにみせかけているだけで、《現実》にはなにも行なっていないのだろうか。芸術は、「まやかし」の世界にだけ棲息しているのだろうか。

そんなはずはない。なぜなら、芸術作品は、誰がなんと言おうと、《現実》に生産されているからだ。われわれをときに涙させ、ときに笑わせ、そしてときに声も出ないほどに感嘆させる、ちゃんとした実感と重み(たとえ粒子のように軽いものであったとしても)をともなった物質として、この世に存在している/していたからだ。それらが、嘘であるとは、どうしても思えない。『イリアス』がこの世に生まれ出でて以来、この作品がホメロスの認識のなかにだけあったことなど、ただの一度もない。坪内逍遥は、シェークスピアの『マクベス』を、《自然(「造化」)》であると言った(3)。シェークスピアは存在せず、ただ、雨に濡れる森の木々や、湖に小波をつくる風と同じように、『マクベス』が存在するのだ、と言った。それで正しい。彼はちゃんと芸術について論じている。芸術は、古代からいままで、ずっと、認識の側にではなく、自然の側にあったからである。風が木々を揺らすのとまったく同じように、よい音楽は、ひとを踊りに誘う。隣人の死がひとを涙に暮れさせるのとまったく同じように、よい文学はひとを涙へと誘う。それらは、けっして、嘘ではない。

柄谷のカント読解に、批判的に即して言えば、こうだ。美は客観的な実在としてある、という定義と、主観的な精神としてある、という定義は、この定義が主張しようとしている内容に限定してその前提を問わないでおけば、《現実的に同時に成立する》。つまり態度や関心に応じた選択の問題ではなく、どちらともが真であるか、どちらともが偽であるか、というパターンしか存在しない(アンチノミーはすべてそうであるし、またそうでなければ、《ヒュームとデカルトの両者がともに実在であったことが説明できなくなる》)。主観的であろうが客観的であろうが、美は、存在するかしないか、のいずれしかありえないからだ(そして、その場合、美を論じている以上、美は存在する、という、両者ともに肯定する立場しか取りようがない)。美はわたしの頭のなかだけにあって、客観的にはない、といっても、まったく無駄である。それはないのと同じなのだ。美が客観的にあるならば、主観的にもあるし、主観的にないのならば、客観的にもない、ということにしかならない。どちらか一方だけが正しいというパターンは、じつは《実践的には》存在せず、したがって、すくなくとも芸術に関するかぎり、最終的には両者とも否定することで閉じるトランスクリティークは実践不能である。美を奪い合っている主観と客観の両者は、弁証法的に統合されるより以前に最初からひとつであり、また、時と場合に応じてどちらかを批判するもなにも、その分割がそもそも成立しない多様体である。客観的な肉体と主観的な精神という言い方があるとしても、肉体と精神とが別々であったためしなど、ただの一度もない。つまり、精神とは、通例の肉体とは認識論的に区別されるとしても、別種の連続する同じ身体の謂いなのである。いずれにしても、分割を証明しえぬ「アンチノミー」を根拠に議論をしても、仕方がない。《美が客観的な実在なのか、それとも主観的な精神なのか、そんなことは、芸術の実践においては、どうでもいい》。主観的か、客観的かを区別しながら美を作り出せるような芸術家は、存在しない。彼らは、主客の別とは無関係に、たんに、美と信じるものを作り出しているだけである。要するに、本当に芸術を論じたいのであれば、われわれは、そんなカント読解から、もう一歩進んで――あるいは後ろ向きに跳躍して――もっとシンプルな、それでいてケイオティックなゼロに戻らねばならない。

真の芸術空間は、ここにある。現実を変える力を持った最良の芸術家も、やはり同じく現実を変える力を持った最悪の芸術家も、ここにいる。アリストンにしたがうならば、そうでない、中間の、現実とは隔離された認識論的似非芸術家など、どうして芸術として論じる必要があるのだろうか。美は主観的なものなのか、それとも客観的なものなのか。どちらであろうと、最良でも最悪でもありはしない。そんなことは、どうでもいい問題なのだ。

柄谷はいう。

…彼〔カント〕は一方で、芸術性が客観的な対象にあることを疑い、他方でそれが主観性(感情)にあることを疑っている。彼がもたらす主観性は、むしろこの疑いにあり、それはたえず規範化される芸術を、芸術を芸術たらしめる原初の場にもどすのだ。カントが認めないのは、美的領域が、客観的であれ主観的であれ、それ自体で存在するという考えである。

前掲『トランスクリティーク』、173頁。

特定の美を否定したとしても、それは「原初」ではない。たんに別の括弧のなかに隠遁しただけである。たしかに、美が主観的に存在すると語ることも、美が客観的実在であると語ることも、いずれも、美がそれ自体で独立に存在すると主張する、独断論であるにはちがいない。だが、それらをたんに折衷したり、批判したりしているだけでは、それは結局、懐疑論、またの名「判断保留者」の言であることを越えられない。わたしは、判断保留者よりも、独断論者の方を推す。たんに世界を懐疑してそこにとどまっていたデカルトよりも、ただの数値を幾何と信じたデカルトを推す。そしてヒュームは懐疑論者ではない。あらゆる経験を肯定するために、それを否定しようとする“主体”を《屈折》とみなしただけである。

かつて、ソクラテスは、自身を、「産婆」であると語った。ひとびとが生み出す赤子=作品、それは、《自然》において、すべて肯定される。ひとが作り出すにもかかわらず、赤子は《自然》の世界にある。それは、ひとつの芸術作品と同然であり、また逆に芸術作品は、赤子同然でなければならない。それは、独断論(自説を主張すること)であると同時に、独断論ではない。なぜなら、この地点において、良きにつけ悪しきにつけ、世界は不可避的な変化を被るからだ。世界が変化する以上、それは、たんなる独断でも、判断保留でもない。ソクラテスは、この地点ではじめて、倫理を語った。人間はいかに行動すべきなのか、と。それは、徹頭徹尾、懐疑論者が付与した括弧の外側である。

最悪のものを自ら選ぶ人間などいない。むしろ、最悪のもの、それは選ぶのではなく、選んでしまうものである。結局のところ、客観的実在であろうと主観的精神であろうと、自らどちらをこれと選ぶわけでもなく選べているあいだは、最良のものとも最悪のものとも無縁に、ただ中間のものを選ぶことなく選んでいるにすぎない(そして媒介的に最悪のものへと進んでいく)。そんな、ありとあらゆる《中間のもの》を遠ざける実践こそが、芸術であり、それは、《中間のもの》を選ぶことなく選んでいればいい、括弧つきの「大学」や「政治」の世界とは異なる、徹頭徹尾《実践》そのものであるような、本当の世界の実践なのである。

認識論者がどのように括弧を張り巡らせようと、人殺しが常態であるような世界を描いた作品ばかりを子供が読んでいれば(そしてそれが芸術の一端に触れていれば)、子供は本当に人を殺すようになる。子供のころから聴いていた音楽のために、身体はそのリズムに即して本当に形成されてしまう(だから子供はケージとグールドを両方聴かねばならない)。それを、例外的な、保持すべき認識論の境界を逸脱した現実界の侵犯、括弧からの水漏れとみなして非難すべきなのだろうか。そうではない。現実にそれが起こっている以上、非難の論拠はすでに破綻しているのである。大学的知性がつくる括弧は、多様な可能性に満ちた水流の変化を、排除すべき水漏れとみなし、なおかつそれを黙殺させるという、二重に性質の悪い役目しか果たしはしない。だが、芸術は、実際には現実の世界で、すなわち身体的に《作動している》のだ。

芸術がそこにすべてを賭けている《表現の自由》は、そういう《現実》の世界においてこそ、発揮されなければならない、とわたしは思う。そして、おそらく、真の芸術家による美と善の倫理的共鳴は、そんな真の世界でだけ、実現してきた。芸術が、《人を殺すなかれ》という命令を聞くのは、この場所なのだ。現実には、つねに作動しているそれを、いかに《意志する》か。真や善や美が本当の意味で、つまりニーチェ的に問われるのは、暗黙のカント主義者が作りあげた括弧をかなぐり捨てた場所、すなわち括弧などおかまいなしに浸入する《自然》の世界だけだったと、わたしは確信する(4)

 

【註】

  • (1) ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻第2章。岩波文庫では「キオスの人で禿頭のアリストンは、…徳と悪徳との中間にあるものに対しては無関心な態度で生きることが(人生の)目的(テロス)であると主張したのであった」(330頁)。ディオゲネスによると、「セイレーン」と呼ばれるほど美声の持ち主だったアリストンは、しかし禿頭だったため、太陽に頭を焼かれて死んだという。 ディオゲネスは彼を揶揄してこういう詩を拵えている。「いったいなぜ、アリストンよ、あなたは年を老い、頭は禿げているのに、額を太陽に焼かせるようなことをしたのか。だからこそ、あなたは、必要以上に暖かいものを求めながら、心ならずも、ハデスという、ほんとうに冷たいものを見つけてしまったのだ」。
  • (2) 一般にロマン主義の代表格とみなされていた泉鏡花は、ロマン主義を「芸術の為の芸術」であるとする自然主義からの批判について、まず「私は自然主義でも何でも関はぬ。作をする時に何主義に依つて描かうと思つた事は無い」と断ったうえで、「要は好く描けさえすれば好い、自分の芸術的良心に恥ぢない作を示せば好いのだ」と言っている。また、こうも言っている。「肉の力を一に対して、美の力を九としても、それでも人を動かす力は、美の力が肉の力に及ばぬ」。しかし、彼は美に十倍する肉に対して、美によって戦いを挑むというのである。要するに、作品の優劣とは、「人を動かす力」によって決まるのであり、彼のいう「芸術的良心」がこの「力」に結びついている以上、「芸術の為の芸術」は成立しない、ということになる。「ロマンチツクと自然主義」1908年4月。 
  • (3) 坪内逍遥「『マクベス評釈』の緒言」『早稲田文学』1891年10月。「予がシェークスピヤの作を甚だ自然に似たりといふは、彼れが描ける事件、人物が、実際のに同じとにはあらず。彼れが作は読む者の心々にて、如何やうにも解釈せらるゝことの酷だ造化に肖たるをいふなり」。なお、柄谷行人はこれを「テクスト・クリティーク」だと言っている(『日本近代文学の起源』岩波書店)。この議論は、たとえばデリダとフーコーという二人のポストモダニストの差異を論じるほどに込み入るため、紙幅の都合上ここでは深く言及しないが、すくなくとも逍遥は一言も『マクベス』をテクストだとは言っていない以上(また、テクストが許す自由な解釈(「評釈」)の可能性を、結局は後段で排除している以上)、わざわざ「テクスト・クリティーク」と呼ぶ根拠はきわめて薄い。ここは、たんに『マクベス』=「自然」=「造化(非人称の生成)」と言っていると取るべきである。
  • (4) 鏡花は、「小説に用ふる天然」(『国民新聞』1909年1月)において、「小説を作る上では――如何しても天然を用ゐぬ譯には行かないやうですね」といっている。その一方で、同じ『国民新聞』において、夏目漱石は同じ主題でこのように言っている。「天然を小説の背景に用ふるのは、作者の心持ち、手心一つでせう。…其の時と、場合と、事柄とを考へて、適宜に用ふるの他はありますまい」。「天然〔=自然〕」について、小説がどうしてもそこから逃れられぬもの、とする鏡花と、小説にとっては選択の問題にすぎぬという漱石、こうした二人の自然認識の差異を、今日の数多の文芸批評家がみているとは思えない。……

3 Comments

  • yumi.C

    2008年9月13日(土) at 23:39:25 [E-MAIL] _

    田中 希生様

    初めまして。
    私は、関西に住む学生のyumiといいます。

    田中様の文は、すごく勉強になる話ばかりで、
    評論というものが苦手な私にとっては、多方面から学ぶことが
    できる素敵な場所だと、勝手に思わせてもらっております。

     私が大学で専攻している分野はまったく違うのですが、

    Omnes artes, quae ad humanitatem pertinent,
    habent quoddam commune vinculum.
    (人間性に関わるすべての学問は、ある共通の絆を持っている)

     ――の通り、音楽を奏でれば、絵というものを描きたくなり、
    絵を描いたら、その中で生まれる物語を探したくなるような、
    そんな不思議な連鎖を多く繰り返して、
    今現在は、本やインターネットを使い、
    独学で古代文明と神話についても少しばかり勉強しています。
     

    僅かな知識しか持ち合わせておりませんが、
    意見させてもらうことをお許しください。

    田中様の文面上、

    >じつは本当に回避せねばならないのは、《中間のもの》であり、そして避けるのがもっとも困難なものこそ、《中間のもの》である、ということにほかならない。

    という部分なのですが、私はその「中間のもの」が
    読む度に、「安定したもの(自然)」・「カオス」
    というイメージが浮んで仕方がありません。
    美とその存在有無、物事の捉え方の様、考えれば考えるほど、
    すべての考えが中間のものへ還ってゆく。まるで人間の思考回路も、目まぐるしく変化する自然と同調しているようで、
    神秘的で、とても理解できない範囲です。
    そして、あらゆる考えを持つ度に、それが中間へと還さない
    ための、ひっかかり、枠になっているように思えてなりません。

    人であるため、石であるため、川であるため、
    あらゆる枠が色々な言葉に変って存在主張しますが、
    ――ですが、枠がどうこうというよりも先に、
    私はまずはその中身が気になるばかりです。

    人間社会において、ニュースや新聞を見ると、
    枠ばかりが飾って、中身はふやけているような……
    例えをあげるなら、私にとって現代アートの大半は
    それに当たります。田中様が本文であげられたデュシャンの『泉』、一般的なトイレの固定観念を覆すのは、
    話を聞くだけでも面白いことだと思えるのですが、
    同じモチーフを別の人達が創り並べたときに「現代アート」という固定観念が生まれ、
    野道に道ができるような、そんな誰でも通れる道ができるのは、
    中身がどんどん擦れてゆくのが、歴史を知れば知るほど、
    目に見えているように思えます。

    けれど、中間であるもの(自然・カオス)だけは、
    それ自体がじっくりと変ることがあっても、
    中身は擦れることなく、変らずに美を体感できるのですから、
    本当に避けるのが困難で、最も羨ましい枠であり、存在だと
    思えます。

    人が一生得られないのは、
    きっと自然である在り方なんでしょうかね……
    生きていられる長い時間に、ゆっくり考えていきたい
    事柄です。

    長々と、すみませんでした。

    これからもひっそり来させてもらって、
    読ませてもらいたいと思います。

        ありがとうございました。

                          yumi.C

  • kio

    2008年9月14日(日) at 2:24:56 [E-MAIL] _

    どうもyumi.Cさま、はじめまして。

    なるほど、とても勉強になります。

    男と女であるとか、右手と左手であるとか、秩序と混沌であるとか、そういう極端なもの同士の対立がある一方で、はじまりやおわりと、その過程というように、極端なものと中間のものがあって、それらが対立することもまたあるのだと思います。

    どちらも大事な場合があって、どちらも大事でない場合がある。中身や内実が大事な場合もあれば、枠や外見が大事な場合もある。

    こういう押し問答をやってるときに、芸術がいいのは、「そんなのどうだっていいじゃない」、ってところにあるんだと思うんですよね。たんに感動する(笑)。

    古くからある、それでいて忘れられがちな考え方ですけど、芸術は、中身(実質)と外見(形式)を分ける考えを嫌います。たとえば歴史学なら、思想史と、事実や実態の歴史に別れていて、それをなんとかして一緒にしようってことで、弁証法なんちゃらとやるわけですが、芸術はちがう。芸術にとっては、中身(内容)は外見(表現)であり、外見(表現)は中身(内容)なんですよね。

    たとえば、絵画の内容は、画家の表現ですし、画家の表現こそが、絵画の内容です。見えない部分に実質(思想・理論・実態)があり、見える部分に形式(結果としての作品・資料・テクスト)がある、というのではない。絵画作品そのものが、画家の表現(肉体)であり、また内容(精神)なんですよね。要するに、画家の精神が、むき出しになって受肉したもの、それが絵画です。

    浅いか、深いか、という二者択一でもないし、そのあいだの浅くもなく、深くもない場所を取るのでもない。浅いものは深く、深いものは浅いのです。選択と懐疑のあいだで揺れ動くのではなく、両者は実践的には同じなのです(これはこれで禅問答みたいですね)。

    ここまできてはじめて、yumi.Cさんがおっしゃるような部分にたどりつけるんだと思います。つまり、カオスであると同時に、安定しているもの。それは、アリストンも反対しないと思いますし、芸術が目ざしているものでもあるのでしょう。また、目ざしているものであると同時に、出発点でもあるのでしょう。ぼくの言いたかったことも、yumi.Cさんとそれほど変わらないように思います(?)。

    こんなのでよかったでしょうか?(笑) こちらこそ長々とすみません。これからも遠慮なくお越しください。

  • yumi.C

    2008年9月15日(月) at 18:08:11 _

    お返事ありがとうございます。
    いえいえ、とても明確なご返答を頂いて、
    本当にありがたいです。

    抜粋ばかりしておりますが、
    >芸術にとっては、中身(内容)は外見(表現)であり、
    >外見(表現)は中身(内容)なんですよね。
    とても身にしみる言葉です。芸術は人である主張であり、
    証明のようなものなのですね……そう思うと、
    絵画が批判されたり好評される理由も、根本的な理由が
    含まれているからこそなのでしょうね。
    絵を人に見てもらうということだけでも、本当は
    怖いものなのですね。

    さらに勉強になりました。
    よろしくお願いします

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