1619年11月10日、ドナウ河畔ウルム冬営の夜、デカルトは《われ》を発見した。その時、彼に一体なにが起こったのだろうか。われわれは、これを近代の始まりとみることに慣れている。近代とは、神のものでもなく、王のものでもない […]
歴史を生業にする者にとり、過去は偉大である。ときに圧倒的な尊敬の対象である。だから、史料を読むとき、批判から始めることはない。歴史家の前に、過去は問答無用の確信を迫って現れる。《常識》が遠ざけたがる奇妙な記載は、本当に不 […]
五月革命以降、一九七〇年代を前後するわずかな期間に、フランスには哲学の帝王が君臨していた。ミシェル・フーコーである。もちろん、帝王という用語には注意せねばならない。というのも、後世の歴史家に誤解を与えてはならないからだ。 […]
ぼくは、ニーチェほど不器用で、そして真っ直ぐな人間を知らない。端的に、崇拝するアイドルのひとりだ。彼は真っ直ぐであることにナイーヴで、そして勇敢だった。ぼくたちには、彼の書いたものは、ときに、あまりにもひねくれて見える。 […]
この三人について、ずいぶん、言葉を費やしたと思う。とくに、デリダについては、ここでは比較的たくさん語ったし、本当のところをいえば、もうあまり文句はいいたくない。きっと彼の人柄は、素晴らしいものだと思うから。それに、わたし […]
最近、ジャック・デリダの文句ばかり言っている気がするが、どう読んでも納得がいかないのだから仕方がない。とはいえ、自戒しておくが、勘違いしてはいけない。彼の行なう、微に入り細を穿つテクスト読解は、それはすばらしいものだ。わ […]
憲法というテクストがある。これはわたしたちの外部にあり、国民投票という改変を経なければ、どうにもならない《もの》である。カント風にいうと、かの憲法は、一種の《物自体》である。もちろん、改変できる以上、「どうにもならない」 […]