さて、最近考えていること——「自然」である。もうすこしいえば自然に生きること、である。そういうふうにいえばギリシア的(ここでは、神と法とが同じ場所を占めるヘブライ的世界観ではなく、神と法とのあいだに探究の余地があるということ)、というかストア主義的課題になっていくが、もっと原理的かつ現実的に、プラトンの『国家』のなかで、ソクラテスが子供はまず音楽と文芸とを、ついで体育を学ぶべきだ、と言っていたことの意味を考えている。ソクラテスは親から教育を奪うべきだともいっていた。つまり家職に教育を依存させない。また、男も女も将来同じように仕事をするからには同じように学ばなければならない、ともいっていた。つまり性にも教育を依存させない。これらのことから、彼の教育についての考えかたがわかる。すなわち、子供から、親たちがもっている固定観念——いいかえれば《社会的なもの》を注意深く遠ざけようとしているのである。
その意味をしばらく考えていこう。彼は音楽と文芸とがつくりごとだと言っていた。つまり真理とは間接的にしか、かかわらない、と。だがその点をむしろ肯定している。とすれば、彼の教育方針からして、真理が社会的なものであると考えていることがわかる。また家職にせよ、性別にせよ、それらも社会的なものであるかぎりで遠ざけねばならないのであって、身体維持の観点からは区別される。家職を継ぐのが当然の封建時代でないのはもちろんのこと、性をめぐる固定観念に批判的な現代社会なら、彼の意見は当時よりずっと理解しやすいだろう(実際、ソクラテスは男女ともに同じように学ぶべき、と主張するのは世間的には嘲笑と非難の種であるのを自覚しながら話している)。今日風に言い直せば、どこの大学を出たとか、どんな職業に就いているだとか、ましてやどの性かだとか、そんなことも、彼が遠ざけようとしていることだといっていいだろう。必要なことは、社会の、もっと別のいいかたをすれば真理の鋳型なしに、この世界を自分の目で見つめる態度をこそ、教えようとしている。すべては自然から始まるのでなければならない。
そのあとで、体育が——つまり身体の教育がやってくる。社会的なものの教授は、もっとあとでやってくるのだ(もっとあとにすべきだし、しかしだらだらと先延ばしにすべきでもない)。しかし、それについては、いつか訪れるつぎの思考のために取っておくことにしよう。いま大事だと思っていることは、もう言ってしまったからである。
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