「論争」と「炎上」

criticism
2021.07.29

いつしか、「論争」に意味を見出せなくなってしまった。考えてみれば、それは、ひとが思っているよりもずっと奇怪なものである。自分が「論争」しないのは、勝っても(論破しても)、負けても(論破されても)、たいして面白くないからである。「論争」で自分の能力が向上することは、いっさいない。

学者、とりわけ人文学者は、その存在を賭けて、言葉を紡いでいる。SNSで呟いているときでさえそうだ。だから、言論人でありながら、「鍵アカ」や「匿名アカ」で、つまり影でこそこそ喋る連中は、そもそも言論人の資格喪失を意味していて、なぜもっと言葉を大切にできないのか、同じ言論人として、理解に苦しむし、それ以上に胸が痛む。

存在を賭けて言葉を紡ぐ自分にとって、「論争」は、生死を賭けた戦争と同じである。だから、「議論しよう」などと軽々に言う連中とは、お付き合いできない。自分は、安易な批判には怒りでもって答える。つまり抜刀する。相手がそのつもりなら受けて立つ。だがたいていはそうではないから受けない。刀など簡単に抜くべきではないから。

そこまで重く考えることはないのではないか、というのが学者にもいるかもしれないが、軽い「論争」がしたいなら、自分ではないほかの誰かとやってくれ、と思う。刀を軽くあつかうことは、自分にはできないから。

逆にいえば、世間でいうところの「論争」とは、存在を賭けるわけではない、存在とは切り離された言葉のやりとりにすぎない。そのやりとりで、学者としての存在にいささかも傷つかないというのだから、「論争」とは、要するに、砂遊びにすぎないのである。

「言葉」は、無力ではない。むしろ言葉こそ、《力》である。刀同様、他人を深く傷つける力をもっている。だが、「論争」好きの連中は、言葉を現実の刀よりは一段劣るものと考えて——つまり存在には結びついていないと考えて——、軽々しく言葉を用い、そしてその結果、他人を傷つけ、そして「炎上」するのである。

言葉は、蔵で眠っている、現実のなまくら刀よりも、はるかによく斬れる刀である。実際、ひとは、自分でもわからないうちに、たえずそれを磨いている。そうしてできあがった、じつは刀よりも鋭利な言葉を安易に用いて無意識に人を傷つけ、それで「炎上」しても、言葉の力を知らない彼には、「炎上」が奇妙な現象にしかみえない。

「論争」好きの人間がわかっていないのは、言葉の不用意な使用が招く「炎上」のほうが通常の反応であって、じつは世間でいう「論争」のほうが、はるかに奇妙なものである、ということである。ほんとうは殺し合いをしているのに、砂遊びだと思ってやれ、というのだから。

いまや、誰でも簡単に、言葉をパブリックに使用できる時代である。したがって、現代特有の「炎上」現象が発生しているのだが、それ自体は、論理的には想定範囲内の現象である。というのは、用いた言葉が、きわめて多くの——想定をはるかに超える数の——他人を傷つける可能性に、晒されている、ということだからである。

むしろ、学者が学界という狭い範囲でおこなってきた「論争」文化のほうが、異常なものであって、それが世間でも通用すると思うから、学者には「炎上」が特異な現象にみえるわけである。学者の地位=存在を保ちつつ、言葉のやりとりができるとする「常識」は、学界の内部でしか通用しない。

「炎上」現象を、ひとはもっと尊重しなければならない。不用意に抜いた刀で数多くの人間を傷つけた結果生まれた「炎上」について、抜刀し傷つけた側がこれを奇妙な現象とするのは、根本的に履き違えていて、さらなる「炎上」を招きかねない。言葉を武器として用いる側の人文学者が、砂遊びとしての「論争」を人に強いることで、言葉を無力化して(実際には無力化などしないのに)、なにが楽しいのか。だから自分は、「論争」しないのである。遊びではないからだ。

言葉は、ひとをほんとうに傷つける。たとえば件の虐めにしても、実際の虐め以上に、虐められた人間を笑いものにするパブリッシュされた言葉のやりとりに、ひとは怒りを覚えているのである。ひとは実際にそれで傷付いたのだ。人文学者なら、そうした言葉の重みが理解できなければならない。

そういうわけで、学者になるにつれて、自分は、ひととはもう滅多に議論をしなくなった。仮にするとしても、議論する前からあらかじめ結末が見え、その結末が他人を過度に傷つける可能性がなさそうに見えた時だけである。本気で言葉を紡ぐことが大事なのだから、べつに「論争」でなく、論文でいい。論文でも、命のやりとりはできる。

まあ、自覚をもって、本気で抜刀してくるなら、こっちもその姿勢には敬意を払う。つまり抜刀する。だが、そういう人間とは、案外、論争にはならない。むこうも言葉の力を信じてくれている。それくらい言葉を大切にできる者同士、おたがいわかっている——戦うべきは、われわれじゃない、と。

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