思想を持とう

diary
2022.07.07

夢を見た。坂本龍一がぼくと手をつないでいる。彼は音楽のことを教えてくれる。ここはこう動く。あそこはこう動く。和声や対位法のレヴェルだけではなく、音そのものについても、いろいろ教えてくれる。だけどぼくは胸がいっぱいになってしまう。ぼくはもう、音楽家じゃなく歴史家なんだ、と。

坂本龍一はいう。もう新しいものが生まれる時代じゃない、と。彼ほど勉強した人は、日本の音楽史上なかなかいないから、それはもっともなことと思うし尊重するのだが、歴史家のぼくはそんなことはないと思う。まだ前に行ける、と。誰もがもう先はないという、そこで苦労して前に行くのだと(坂本龍一が前進したように)。

もう、新しいパズルのピースを探す時代ではない。歴史の本流からはずれた細かいところに、ひとの触れていないピースがあるかもしれないが、もう、本流においてできることは、ほとんどない。いまあるピースの組み替えだけだと。そういう雰囲気が現代を覆っている。だが、そうでもないのだ。ピースは、作り出せる、と。

ぼくは、たとえばメイヤスーやハーマンのいう思弁的実在論や、スティグレールの技術哲学の意図をよく理解しているつもりだ。なぜ彼らがそこに行かねばならなかったか、ドゥルーズのあとで、ぼくの世代の人文学の行き先のふたつを、よく示したと思う。自然と主体ではなく、技術と存在、そこに問題の焦点がある。

ぼくはまだ先に行きたい。だが、世間はそうじゃない。競争をやめよう、進歩をやめよう、つまり活動なるものは悪だ、と。だがそれはちがうと言いたい。斎藤某がいうようなそんなもの、思想ではない。人間は先に行くことしかできない。先に行けなければ死ぬ。先に行く、その先々をよりよくしていくほかないのだと。

前進をやめれば、停滞どころではない凋落が待っている。ベルクソンは脳はひとを前に向ける装置だといった。前進するのをやめる、とは、脳を使用しないことだ。それはますます手にもとづく技術の跳梁を許す。ひとは思想をもたねばならないが、それは行動のために費やされるのでなければならない。

むずかしい時代だが、思想が脱皮できなければ未来もない。だけどそれなら、思想やるにはいい時代かもしれないね。本当の意味で、ものを考える。未踏の場所、つまりエレフォンで。

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