高見と小林の墓参り

diary
2008.12.31

一昨日、鎌倉は東慶寺を訪れたときの出来事。

まずは高見順の墓参り。相手が作家であると思うと、それも死人であればなおさら、こちらも裸にならざるを得ない。とりわけ彼の前では、隠し事はできない。自分でも思いもよらなかった言葉が口をつく。「迷っている……」。ぼくは、歴史について思考し、そして哲学について思考し、巡り巡って文学にたどりついた。文学、この言葉は、ぼくにとって、もっとも《現実》的なものだ。本当の意味での思考、本当の意味での出来事、つまり現実は、ここにしかないということに、最近になってようやく気づくことができた。それは幸運なことだった。

文学が虚構であることを笑うひとびとがいる。多くは、批評家であったり、研究者であったりするひとたちだ。だが、じつは歴史が虚構であることをついに否定できないように、どのような批評も研究も、虚構なのである。大学の外にいる「実業家」たちからみれば、大学そのものが、充分に「虚業」である。だが、歴史がついに虚構を超えないということ、そのことは、突き詰めれば、大学の外でさえ、虚構の可能性を払拭できないということでもある。「実業家」と呼ばれるひとたちのことを考えてみればいい。彼らは、作家たちが虚を実にせんと欲望するその強さに引き換え、なんと虚に塗れていることか。要するに、資本主義という虚構を盲目的に信じることにおいて、実業ほど虚構的なものはないのである。

つまり、虚や実という区別は、ついに意味をなさない。物自体の世界と現象の世界という区別は、ついに意味をなさなくなる。世界そのものが、劇場なのだ。重要なことは、虚や実といった区別ではなく、虚を実にせんとするその実践、その意志のみである。そして、「劇場」という言葉が、もしその外部を想定した言葉であるなら、この語も不十分である。フランスの天才哲学者が言ったように、だから「工場」というべきなのかもしれない。なにかが生み出されるという、そのことを思考できるのは、もっと正確に言えば、思考そのものがなにかを生み出すような、そうした空間とは、劇場―工場のシリーズにおいてのみあらわれる。それを日本人は文学といった。ここにいたるまでにぼくはずいぶん回り道をした。それはもしかしたら、苦悩の軌跡といってよいかもしれない。

だが、戦前の作家たちは、さらに先を歩んでいた。彼らは、現実と文学の断絶に苦悩するようなナイーヴさはとっくの昔に克服していたし(むろんその問いにはたえず向き合わされていたとしても)、虚構にこそ深い現実が現れることを、とっくの昔に知っていた。高見順はぼくに言った。「よろしい、君は文学を発見したのだな? 文学にこそ、君が求めていた真理があること、それを発見したのだな? なら次は、《君の》文学を発見することだ。そうしてはじめて、君は本当の意味で文学を発見したことになるのだ。そこに至らぬかぎり、文学を発見したなどとは言えぬのだ。」

そうかもしれない。ぼくの文学? それはいったいなんだろうか。戦前の作家たちは、みな、自分のスタイルを見つけ出していた。文学という空間のなかで、さらにそこに驚異的な飛躍を可能にする斜線を引いて回っていたのだ。ぼくは全然甘いのだ。どうすればよいのだろう。ぼくの問いに、高見は答えた。「いいからなにか書きなさい。」

さて、このお寺には、たくさんの著名人の墓がある。高見順をはじめ、西田幾多郎、和辻哲郎、鈴木大拙、阿部能成、岩波茂雄、そして小林秀雄。小林秀雄の墓か。ぼくは墓の前で、こんなことを思わず考えた。「志賀直哉について、なにか書けたらと思っている……」。すると、墓のなかから顔を出して、小林はこう言った。「お前が?」 不服そうな彼の口調に、思わず立ち上がった。どうしてこんな自問自答が浮かぶのか。ぼくが喋っているのは、小林ではなく、自分なのだ。動揺と不満とがないまぜになって、ぼくは墓に尻を向けた。同行者がぼくを不審そうに見ているのを知っていたが、とりあえず小林の墓の前を去ることにした。ぼくは小林以外の批評家をまったく認めていない。つまり、小林は認めている。たが、こうした物言いは、小林には傲慢に映ったのだろう。当然だ。彼の墓の前で、まったくいい気になっている若造以外のなにものでもなかった。

小林の墓を後にすると、石段の底で、カメラを持った六、七人の集団がぼくの横を通り過ぎた。ひとりは、かつて小林秀雄賞を受賞された方だと記憶するが、間違っているかもしれない。彼らも、小林の墓参りらしい。同行者は彼らより先に小林の墓参りができてよかったと言った。ぼくはなんの感想もなかったが、小林とはもっと長く喋っておけばよかったかもしれないと思った。

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