言葉は夜のうちに

fragment
2009.07.07

ぼくは、言葉を直接現実に作動させる経験論を諦めていないし、またひとびとの精神を、物体の重力から引き剥がす言葉の独自性も信じている。そして、かつての偉大な文学者たちの言葉に触れるとき、彼らがそうした思考を追い求めていたことを知って、涙を流すくらいに感動する。

文学者にとって、「海」という言葉は、いつも本当の海よりもすこしのことしか語らないし、余計なことしか言おうとしない。たとえばその文学者が日本人だったとして、またその彼が海を描こうとしていたとして、彼が既存の「海」という言葉に満足していないことは明らかだ。そうでなければ、何ページも貴重な紙を費やして、「海」を長々と論じたりはしないはずだ。「海」という既存の言葉に満足してしまったとしたら、文学者としてはおしまいだ。だから、「海」という言葉に頼ることなく海を紙の上で響かせるために、死に物狂いになって、唯一の武器である日本語を幾重にも重ねていく。

「農夫」でも、「労働者」でも、「失業者」でも同じことだ。もし、「労働者」というだけで「労働者」のことが語れるなら、もはや文学は必要がない。だから、文学者以上に、言葉が現実には足りず、また現実から余分であることを知っているひとはいないのだ。

だからといって、彼らは諦めたりしない。諦めが悪いおかげで、とうの昔に諦めてしまったひとたちからは嫌われている。「海」が海であることを受け容れること、それが社会なのだ。もちろん、本当はそんなことはないけれど、言葉というやつは、いつも失敗するのだから、そんなことにこだわるのは、無駄なことなのだ。だが、現実に対して過不足をもつのが、往々にして言葉のあり方だったとしても、文学者たちはそんなものを言葉の本質だとは考えていない。彼らはそれを言葉のせいになどはしないのだ。そうしないで、自分の力不足だと考える。だから、いつかはきっと、言葉が出来事になることを信じているし、実際には、そうした矢としての言葉こそが言葉の本質だということを、狂人のように信じきっている。

言葉は、たしかに、国民国家を作ったと思う。というのも、国家は、往々にして余計なことしかしないし、またいつも足りないからだ。それはたしかに、上で言ったような、言葉のある種のあり方に、よく似ているだろう? 国家が、唯物論的なものであろうと、観念的なものであろうと、それは関係ない。国家が観念的であるなら、言葉もまた観念であろう。だが、国家が実在的であるなら、同じくらいに言葉もまた実在的であるはずだろう(だから、観念論か唯物論かという問いは、本当の問題ではない)。それくらいに、国家と言葉とは親密なのだ。

だが、それはおそらく、偽の親密さである。矢としての言葉は、国境を越えることをいつも願ってきたし、言葉が矢――つまり武器であるなら、そもそもそれを味方に向かって放ったりなどしない。そして本当は、それこそが言葉の本質なのだ。そして、文学者は、そのことを知っている唯一の人種である。というのも、彼らはいつだって、既存の言語には満足しないひとたちだったから。自国語の「海」を、彼らはいつだって超えようと努力してきた。だから、彼らを国民国家を作った人たちだと規定するのは、どう考えても無理筋なのだ。文学者はむしろ、お手々つないで言葉と心中しようとする国家を引き離し、もう一度言葉を外へ連れ出そうとするひとたちである。国家社会が与える「海」などに満足したことなどただの一度もないし、だいたいそんなおぞましい弁証法など、まっぴらご免こうむる。

言葉と国家、言葉と社会の見せかけの親密さに目を奪われてしまったひとたち(要するに言葉の失敗の方をその本質だと考えているようなひとたち)は、早々に言葉を諦めてしまったし、あろうことか、言葉を諦めることが、現実に目を向ける第一歩だとさえ考えている(われわれは差異を知っている、ただそれは埋められない差異なのだ……)。だから、いつまでも頑固に言葉にしがみついている文学者が我慢ならなかったし、浅知恵を働かせて、あるいは早分かりして、文学と国民国家を結びつけるだけで満足してしまったのだ。

学者ども、批評家どもは、あまりにも簡単に「海」という言葉を、そして「労働者」という言葉を使う。そして、ただ「海」や「労働者」というたった一言の言葉を、何日も何ヶ月も何年も、何ページも何冊も費やしてようやく語る彼らをあざ笑う。だが、どうして、マルクスは、「労働者」とただその一言を述べるために、あんなに紙を費やしたのだろうか?

「海」というただそれだけの言葉を発するために四苦八苦している彼らが、ぼくは大好きだ。だからマルクスだって、愛している。言葉をそれほどまでに神聖なものにする彼らに、ほとんどあきれてしまう。彼らはいつも、閉じようとする国家に風穴を開ける。そして、開け続ける。たしかに、もう、彼らほどの努力をしているひとたちを見かけることはなくなってしまった。だが、だからといって、国民国家もろとも「終焉」させてしまおうとしている学者や批評家たちを見ると、本当にうんざりしてしまう。みんなどうして、彼らの努力がわからないのだろうか。そんなに簡単に、彼らの努力を終わらせてしまうつもりなのだろうか。文学がエンターテイメントだったことはただの一度もないし、日々の労働に疲れたひとたちに癒しや暇つぶしを提供しようとしたことだって、本当はなかった。文学者が言葉を磨くのは、たんに自分の欲望に忠実だっただけだし、じつのところ、彼らは自分のことだけしか考えていなかった。だがそうしてできた言葉は、ぼくらの眠っている夜のうちに、固く閉ざされた世界という扉の鍵を開いて回っていたのである。

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