言葉の力、そして侮辱罪と無意識について

criticism
2022.06.15

さて、侮辱罪が改正され厳罰化された。匿名での誹謗中傷が問題になっているこのネット社会、刑法がそこに向かう必然性はわかる。

しかし、昨今の日本人は、どれほど金利を下げても借金しない国民であり、またいかにウイルスの勢いが減退してもマスクを外さない国民である。そこに侮辱罪が厳罰化されればどうなるか。あまりいいことにはならないだろう。無意識に他人を傷つけることを恐れて沈黙を選んでしまいそうである。

正しい側面もあるにせよ、日本人からますます元気を奪う政策であるのはまちがいない。司法によって白黒つけるシンプルさはわかりやすいが、政治家はそれが社会的にどのような意味をもつかまで測定することができなければならない。そこに政治家の存在意義がある。

われわれは、無意識にひとを傷つけることを恐れる。言葉は発話者の意図を離れて拡散する。それがどのようにはたらくかは受け取り手次第である。侮辱罪は親告罪だが、被害を受けたと思う人間がいれば、発話者の意図がどういうものであれ、それは罪となりうる。

こういう次第だから、侮辱罪は言論の自由にかかわっている。政治家や学者が、自身の受けた批判を侮辱と捉える可能性のなかで、なお言論を紡いでいくことができるかどうか。批判を侮辱の語で塗りこめてしまう社会になるとしたら、これからは言論人の勇気がますます問われることになる。

人間は話をする動物である。話すのをやめることはできない。その一方で法の抜け道はいくらでもある。発話者が特定されなければいいわけだから、ひとはますます匿名を求め、集団のなかに埋没し、そして層いっそうマスクを求める。そうしてますます陰口を叩く。悪循環というほかない。名前と顔のない発言は、自由とはまったく関係がない。名前と顔を出して、発言できる、ということにしか自由はないのだ。

われ知らず他人を言葉で傷つけているかもしれない、というタイプの無意識は、さほど深いものではない。それは、誰もが共感可能な浅い無意識でしかない。要するに、過去に自分が傷ついた経験を他人に当てはめているだけなのだ。たんに痛みを遠ざけるだけの、こういう浅い無意識は理性にかかわり、そして「道徳」を形成する。

しかし、ほんとうに重要なのは、意識化それ自体を〈なかば意図的に〉遠ざけているような、深い無意識である。すなわち、自分で自分を傷つける可能性を、ひとは原理的に受け入れるのが難しいのである。したがって、深い無意識を自覚するとは、言葉が他人と同時に自分をも傷つける可能性をもったものとして、あえて受け入れることである。これは本質的に、共感の可能性を破棄することでもある。というのは、それは〈それぞれに固有の痛み〉だからだ。だからこの無意識はじつは感性にかかわるのだが、しかし、その感覚の固有さにこそ、自由がある。

自由の場所は、ここである。他人も自分も傷つけない言葉は自由とは関係しない。むしろ沈黙と関係し、言葉を沈黙や無意味という理想に向かって、つまり最終的には非-使用に向かって使用することである。この種の使用はだから「道徳」とかかわっていて、「道徳」の理想はひとを黙らせることなのである。われわれはこういうタイプの浅い無意識がもたらす言論の不自由を、「道徳」とともに否定しなければならない。

しかしそれは恐るべきことだ。他人および自分を同時に傷つけるような言葉においてしか、われわれの自由はその本来の意義を発揮できない、ということだからである。

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