自由な歴史学

criticism
2021.06.29

さて、若い人たちの自由を求める意識の希薄さに、戸惑うことがある。もちろん、歴史学という狭い世界の話だから、外ではちがうのかもしれない。勝手に決めつけないでくれ、と思っているかもしれないが、それでもあえていっている。ぼくにしても、自由を求める、というのは論理の話であり、現実の話ではなかった。現実には十分自由だったから。

論理的な思考が、じつは暗黙に前提しているものがあって、それが「自由」であると、自分にはぼんやりと感じられていた。人間が最低限自由を求めるということを前提しないと、いろいろな場所で混乱が生じるように思われた。論理の外側にある恐ろしい自由なしには、論理も成り立たない、というような。

歴史学といえば、かつては人間の自由の拡張史の学であった。その高貴な内発的意思によって、人間は時とともに自由を達成し、拡張する。古代から中世、近代にいたるいくつかの画期は、まさに自由の物語のために必要とされるのである。

武士の誕生にせよ、一揆の発生にせよ、王政復古にせよ、自由民権運動にせよ、大正デモクラシーにせよ、あるいは封建制や帝国主義、言論統制や総動員体制等々は、人間の自由の物語、すなわち歴史の重要なアクターである。……であった。

戦後歴史学は、こうしたアクターを最重要なものとして取り上げ、順序よく積み上げ、やがて歴史は自然に構築された。時がすすみ、いまでは、これらの事象にみられる自由への意志をすべてキャンセルしていくことに、研究者の労力が費やされている。途方もなくシニカルだが、それが現代の知性の姿である。今日の歴史学者のバラバラな言を総合すれば、われわれ日本人は、べつに自由など求めていない、となる。

マルクス主義を批判するあまり、人間の自由意志もろとも葬り去ることになっているのが、現状の歴史学界である。グランドセオリーとなっていたマルクス主義を批判しながら、史料にもとづいて、マルクス主義の影響とみられた人間の自由意志を否定していく。こうしたネガティヴキャンペーンを、実証主義(ポジティヴィズム)と呼ぶ転倒が、今日の歴史学界の通奏低音である。

自由意志を否定すれば、歴史に必要な最低限の論理も、方向性もなくなる。ディスオリエンテッドな、とにかく散乱した研究群が相互に関連なしに生じていて、群を超える議論も生じ得ないし、研究群の内部で、史料と史料とをつき合わせていくだけが、歴史学界ということになっている。

戦後歴史学がとりあげた自由の物語のアクターたちが、若い学者によって敬遠され、マルクス主義に重ねて葬り去られる。先達の取り上げなかったものをあつかうか、先達の研究そのものを黙殺するか、あるいはマルクス主義から自由の意志だけを取り去って、その枠組みは使用する。諸研究相互の論理性などなにもないから、議論もない。

たとえ余計なお世話だといわれても、若い研究者に何度も言わなければならないのは、歴史学は、人間の自由の拡張史をあつかうことが本流だ、というそのことである。文献とつきあわせて事実を確定すること、というのは、その次の前提であって、教師ははたして、若い人にそのことを伝えているのだろうか。

HAVE YOUR SAY

_