素粒子のこと

diary
2008.09.03

京大の基礎物理学研究所の隣に湯川記念館がある。そこには、中間子の存在を理論的に予言した1935年の「素粒子の相互作用に就いて」の原稿やそこに至る計算が書かれたメモ、あるいはバートランド・ラッセルからの手紙(ラッセル=アインシュタイン宣言への署名を請うもの)など、湯川秀樹にまつわる厖大な資料が残されている。最近、わたしは、音楽のことがもっと知りたくなった。それで、湯川記念館で、それらの資料に触れてみようと思った。

何日もそれらの資料に触れていると、門外漢のわたしにはまったくわからない数学の公式をみるのが、とても楽しくなってきた。厖大な資料の渦のなかで、数式に出くわすと、なんだかわからないが、どきどきしてくる。御存知のとおり、数式には、多くのギリシア文字が出てくる。α、β、γ、δ、ε、ζ……。ギリシアのアルファベットが好きなので、それも、どきどきを増幅させる原因だろう。そこには、すでに音楽がある。いや、もちろん、それらは素粒子について書かれたテクストにすぎない。そうみなすのは簡単なことだ。だが、主客の順序を変えて、テクストにすぎないそれらの数式には、じつは素粒子のことが書かれているのだ、と思うとき、そこには、すでに美しい音楽がある。今度また数式をみつけたら、泣きながら笑ってもいいと、本当に思う。

批評家や歴史家は、本のページを、後ろからめくっていく。すでに結末を知っている彼らは、本に立派な表紙をつける。現実と、なかに書かれた物語とを区別するために? 《自然》と、《文化》とを区別するために? きっとそうだ。断言してもいい。しかし、ひとは、本当は結末など知らない。結末を知らないということ、それが生きることだ。高橋悠治が「初見」でピアノを弾きたがるのは、楽譜を読まずに歌いたいからだ。本当にわたしが断言せねばならないこと、それは、音楽や文学は、つまり芸術は、素粒子である、ということだ。素粒子の振る舞いは、結末を知らない文学のようなものでなければならない。

湯川たちがラッセル声明のために集めた署名のなかに、田辺元や務台理作の自筆のそれがあった。ふと、京都学派のことを思う。たとえば、この学派の俊英であり、西田幾多郎にもっとも評価されていた高山岩男は、少年時代はむしろ、当時来日したハイゼンベルクやアインシュタインらに魅かれていたひとであり、そちらの方面でもきわめて優秀な成績を修めていたのである。和辻哲郎にしても、西田にしても、彼らはヘーゲルに接近していくが、量子論あるいは素粒子論的な思考は、別にヘーゲルを遠ざけてはいない。当時、ある物質の振る舞いを《現実に》決めるのは、ついには鑑賞者である、という量子力学の思考にもっとも近しかったのは、ヘーゲルの歴史観だったのである。彼らにとって、ヘーゲルは、二者択一のあいだで進退きわまって弁証法を選ぶような、そんなアカデミックな思想家ではなかった。むしろ、積極的に選び取るひととして、そんな勇敢なひととして、映っていた。湯川秀樹は、『哲学研究』という雑誌にも量子論についての論稿を発表しているが、京都学派は、当然、量子論や素粒子論を知っていた。知っていて、そのうえでヘーゲルを選び取ったのである。

いや、むしろ、湯川も含めた巨大な知的体系を構成していたのが、京都学派と言っていい。われわれは、湯川のノーベル賞受賞を、戦後の出来事だと思っている。そうには違いない。しかし、湯川の中間子論が一九三〇年代の思考であったように、じつはむしろ、ノーベル賞の輝きは、真に輝いていた戦前の京都学派の残照にすぎないのである。上述の記念館には、湯川の後輩であった坂田昌一の筆になる論稿も多数残されているが、彼は、素粒子の世界では、もっとも左派にあったひとであり、「無限階層論」を唱えたひとであった(それはいわば、草野心平の「第百階級」に喩えられよう――逆にいえば、草野にとって、素粒子とは蛙にほかならない)。こうしたアナーキーな思考もまた、京都学派から生まれたものである。われわれ戦後の世代は、そうした真の光の残照の方を光と信じ、光の源を記憶の彼方に切り離してしまった。それは、とても空しいことだったと思う。

数学者は、みな、多かれ少なかれ、《独断論者》である。量子力学や素粒子の理論が真に理論であるためには、どうしてもそれは独断論でなければならない。戦後、大挙してあらわれた《判断保留者》の群れは、断言することの重要性を、ついに見失わせてしまった。どちらかといえば悪名の方が高い京都学派のひとたちが、それでも、数学者のような《独断論者》であったことを、わたしは、羨ましく思う。こうした《断言する世界》のなかにしか、数学や音楽は存在できないのだ……。

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