神の表象

philosophy
2004.12.29

ふと、オヴィディウスの『変身物語』のことが浮かぶ。神の表象について考えてみよう。

ふつう、考えられる神の表象パターンは、三つある。ひとつは、怪物として描かれる神である。すなわち、三本以上の腕、三つ以上の眼球、二つ以上の顔を持ち、そして動物と結合もする、あの異形の神たちである。もうひとつは、人として描かれる神である。彼らは徹頭徹尾、人として描かれ、貧民や親のために自らの身を削る聖人もいれば、断食を行なう男もいる。そして最後に、「無」という記号として描かれるあの神である。この三つのパターンは、特定のひとつの宗教のうちでも混じり合っているので、とくにどの宗教がどの表象パターンに属するということはない。だが、あえて範を示すとして、思いつくかぎりで言えば、ひとつめは、エジプトのある神や、仏教のある仏神、あるいはローマの主神のひとつがそうであって、ふたつめは、ギリシアのある神や儒学の聖人であり、みっつめは、いわゆる啓典の民が戴く宗教の神である。

ほとんどうかがい知ることのできない、彼岸(他者/神)の世界を、此岸の人々(自己)が表象する場合に、それをいかに表象するか、という問題は、言語や文字に携わろうとする者にとって、避けることのできない重要な問題なのだが、それは同時に、《真実》とは、いかなる姿をしているのか、という「学」の問題とも分かちがたい。

真実は、真実として絶対であり、しかも、それがひとの外にあると考えられるとき、真実は、《怪物》の姿をして現れる。ひとは、真実の姿を、さまざまに受け取るが、そのどれもが、《真実》の一部なのであり、こうして、《真実》=神は、多面の《怪物》に膨れ上がる、というわけだ。ここでは、真実は、日々さまざまに形を変えてゆく、《自然》そのものであり、《怪物》の神を戴く人々にとっての重要な問題は、客観性の学であるところの自然科学である。経験の数だけ真実があるのであり、したがって、この場合の思考形式は経験主義である。

他方で、真実はひとつであり、問題は、それを受け取る《人》の内側にある、と考えられるとき、往々にして、《真実》=神は、人の姿をして現れる。ここでは、神は、むしろ、さまざまに変化する《自然》を、とりわけうまくコントロールする職人の姿をして現れる。彼らが神であるのは、《自然》を、ただの人よりもうまくコントロールするがゆえに、神なのである。《真実》=神は、人の外側にある《怪物》としての《自然》ではなく、人々の内にいる、善き《人》である。つまり、問題は、真実を《人》がいかに認識するかにある。したがって、《人》の認識を問う、主観性の学であるところの人文科学こそが、重要なポイントになる。われ思う、ゆえに、われあり。つまり、合理論こそが、思考形式の主要なものとなる。

最後に、《真実》は、表象不可能であると考えられるパターンが存在する。この場合、ひとがとりうる表象方法は、「無」という記号をもってくることである。この「無」のはたらきによって、表象は、それまで結びついていた真実(=物=神)と切り離され、表象が、見えるものと見えないもの、すなわち、意味するものと、意味されるものとに分かたれ、記号となる。この場合、神は、《怪物》にも見えるし、また、《人》にも見える。あるいは、神は、《怪物》でもなく、また、《人》でもない。この場合の思考形式を名指すのはむずかしいが、個人的には、ここに、《近代主義》あるいは、《人間主義》(ヒューマニズム)をもってくるのが一番しっくりくる。すなわち、文学的なものであり、精神分析的なものである。狂人は、神かもしれない《怪物》でもなく、神かもしれない《人》でもない。《怪物=人》であるところの、苦悩する《人間》である。《神》は、そして《真実》は、表象されてはならない。せいぜいわれわれが言えるとすれば、それを「無」として表象できるだけだ。この「無」こそが、《人間》の可能性を、切り開く。神は、「無」い、と《人間》は言う。だが、「無」い神を、《人間》はどうして「無」よりも先に言明しなければならないのか? 神は「無」いというために、ひとはまだ、神を必要としている……。この、圧倒的なアポリアを引き受けること、すなわち、言葉と物(表象と現実、人と神、自己と他者)の分裂を、言葉そのものの分裂として、そっくりそのまま引き受けてしまうこと、そのことによって、《人間》の可能性が開かれるのである。

さて、ここで、『変身物語』について触れるべきであろう。おそらく、この書物に書かれている神は、アンチヒューマンである。かぎりなく人の姿をしていながら、人ではないもの、『ミル・プラトー』の作者なら、(いささか誤解を受けそうな――しかしきちんと読めば、誤解の余地は少ないが)“動物”とでも呼ぶような、そうしたものだ。いまのところ、わたしには、この表象を、扱う力量も時間もない。感嘆とともに、この書物を読むばかりである。少なくともいえるとすれば、それは、やはり、《人間》(ヒューマン)を前提にしている、ということだけだ。

われわれは、未来が《怪物》的であるとも、《人》的であるとも言えはしない。その意味において、少なくとも、未来は、《人間》のものであり、また、《反人間》のものである。

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