社会的機能からみたローマ護民官の確立時期の考察

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2021.07.06

(注記。22歳のときに書いた卒業論文である。)

古代共和政ローマの年代記を紐解くと、そこに連綿と連なる身分闘争の縦糸を感ぜずにいられない。年代記の描くローマ共和政時代の歴史から、我々はおのずとヘーゲルやマルクスの言う「歴史とは階級闘争の歴史である」という言葉を想起するだろう。そこで私は共和政ローマにおける身分闘争の一方のリーダーとして重要な役割を果たした護民官tribuni plebis*1に俄然注目した。護民官は平民plebsの擁護者であり、その頭領として「元老院に代表される時の国家機関に創設を認められた革命機関というべきものであり、すなわち同じ国のほかの公職者が*2行おうとする適法の国家行為を阻止すべく国家的に公認された公職に他ならず、モムゼンをして合法化された永続革命と言わしめた*3」他に例を見ない特異な公職であったという。本稿では研究対象を絞るために主に成立当初(共和政誕生から紀元前五世紀半ば)の護民官について考察するものとしたい。

現在の我々がこの時代のローマを知る直接の史料として、LiviusやハリカルナッソスのDionysiusに代表される年代記が挙げられる。我々が目にすることのできるこれらの年代記は、早くとも紀元前一世紀に記されたものである。これらの年代記がそれより古い紀元前三世紀頃の、例えばFabius Pictorなどの歴史家の記述をもとにしていたとしても*4、本稿が研究の対象としている紀元前五世紀のローマについては同時代的な史料ではありえず、またその歴史家が生きた時代の先入観に基づく解釈が行われていると見るのが妥当である。彼らの生きた時代とは、閥族派と平民派が激しく政治権力をめぐって争った時期であり、そのような先入観が紀元前五世紀の身分闘争の黎明期に最初から貴族patriciiと平民plebsの対立を持ち込んだのは自然な流れであったのだろう。このような先入観の横溢する後代の史料であることが明らかでありながら、近代以降の歴史家は、しかし同じ理由からまさに上述した「階級闘争の歴史」を共和政時代初期のローマにもあてはめ、自動的に年代記の身分闘争史的な姿勢を鵜呑みにした。我々に必要な歴史認識における態度は、あらゆる先入観をできるだけ排除し、数ある史料の中から真実だと考えられうることのみを抽出し、提示することである。このような見地から伝承を再検討し、当時の歴史の再認識を試みていると考えられる研究を考察した結果、少なくとも共和政初期の身分闘争はむしろ希薄なものとさえ感じられ、さらに護民官の確立時期に関して新たな提言を得るに至った。護民官の確立は、年代記等の伝承に記され、一般にも信用されている紀元前四九四年よりも、それより半世紀下って第二次市外退去の年とされる紀元前四四九年の方が妥当ではないかという結論である。このような結論に至る経緯について、以下に述べていきたい。

第一章 共和政開始前後の社会状況および伝承の確認

護民官はローマの身分闘争の黎明期に誕生し、その後の身分闘争において重要欠くべからざる役割を果たしたとされる。それゆえ当時の社会の状況、特にその構成要素についての的確な認識が必要となろう。今回、私がとりあげた、上述した先入観を排そうとする見地に立つと考えられる研究にほぼ共通する認識として、この身分闘争が前提とするパトリキ貴族とプレブスの両身分は、王政打倒の紀元前六世紀末にはいまだカースト化しない曖昧な存在であったということである。当時の身分的要素を述べることは、そのカースト化の過程を述べることと同義である。この章は、アルカイク期ローマの身分闘争に積極的な役割を果たした集団とされるパトリキ貴族、プレブス、そしてその中間に位置するコンスクリプティconscriptiの三つについて伝承および近年の研究から考察することに終始する。

a.パトリキ貴族

パトリキは「パトレス(pater, pl.patres)の後裔」を意味し、パトレス(父たち)は元老院議員、王政の時代には王の諮問会のメンバーを指した言葉であり*5、ローマ市民団の構成上、一般に貴族に位置付けられる。伝承に「汝ら(パトリキ)のみが氏族gentes*6を持つ」という記述*7が存在し、パトリキ貴族の起源を氏族組織に求める議論が古くからあった*8。E.マイヤーによれば、「ローマ市建設当時、後に示される元老院等の国家秩序に先行して共同体生活の基礎を全面的に諸氏族に置く状態が存在した*9」という。後の時代には平民も例外なく氏族を持っていたことが確認できる*10のだが、しかし共和政開始当初の古い公職者表ファスティfasti*11には、相当数のパトリキ貴族*12の他に、十数の平民の氏族名が紛れもなく存在している。これを後世の捏造と見る向きもあるが*13、これが事実なら、少なくとも氏族組織を持つということがパトリキ貴族を認識する手立てにはならないことになる。さらには、後の時代の伝承においてパトリキ貴族だけが氏族組織を持つと断言されるものの、紀元前五世紀半ばまではそれが当てはまらないという事実は、この時期のパトリキ貴族のカーストの曖昧さを傍証してもいよう。ファスティの平民氏族名の存在は、パトリキ貴族が最高公職であるコンスルconsulを独占していなかったことを示すものであるとともに、このようにパトリキ貴族のカーストの存在をも疑わせる重要な証拠である。紀元前七世紀には考古学的に貴族階層の存在が確認できる*14ものの、共和政期当初には未だカースト化していなかったのである。サンクティスの指摘*15以来、パトリキ貴族のカースト化は共和政開始以降の暫時的な現象であるとする、数多くの研究がある。この現象は「パトリキの柵」と呼ばれる。ここでは特にクリア制度curiae*16をパトリキのカースト化と結びつけるパーマーの研究*17を引用したい。私はクリア制度こそパトリキをパトリキたらしめた最大の要因と考えるからである。

クリア制度は我々が確認できる最古の国家制度であるが、その起源は年代記著作家の時代にすでになぞめいた過去の時代のものであり*18、詳しいことはわかっていない。共和政時代、パトリキ出身の氏族に独占され、世襲されたクリア長curio maximusは専らそのクリア内の祭儀を取り仕切る神官であった*19けれども、他に国家制度の知られていない前期王政時代、いわゆるラテン-サビニ王政期*20には間違いなく重要な公職であったと推測される。クリア長に任命される根拠はその経済力であったと推測されている*21が、クリア長を出す家系は次第にいくつかに絞られ、最終的には世襲化したと考えられる。クリア長に任命される者は、その家族内における、ローマ特有の強力な権限を有する家父長pater familiarumであったことは間違いなく、ゆえに彼らはローマ市民からpatresの尊称で呼ばれたという*22。この古いクリア制度を掌握したグループこそが、後のパトリキ貴族の有資格者であった。パーマーはさらに、元老院senatusもまた、クリア制度から生まれたと指摘する*23。クリア民会comitium curiatumの上位組織であるクリア長の集会comitia curiataによって王は推戴され、またこの集会は王の諮問機関として機能し、元老院の前身となったという。その根拠としてクリア民会の権能として共和政末期まで保持された公職者の職務権限インペリウムimperium*24を承認するクリア法lex curiata de imperioに言及している。さらに共和政時代にパトリキだけが就任可能な中間王interrex*25が元老院によって任命されたという事実を指摘して、元老院とクリア民会の役割の類似性を見出し、クリア長の集会を元老院の前身であると結論付けている。エトルスキ王政期にケントゥリア制度なる新たな国家制度ができた後もクリア制度は形を残し*26、共和政開始以降、パトリキ貴族はクリア制度に残されたクリア法および中間王制interregnumの特権を行使することによって他との差異化を図り、インペリウム公職を独占することで閉鎖的なカースト化として固定されたというのが大筋の議論である*27
今後の議論に関わるパトリキ貴族にのみ許されたこの二つの特権およびその行使によるカースト化について、より詳しく見ていかなくてはならない。クリア長であるパトリキの絶対的な影響下にあったクリア制度は、エトルスキ王政期には形骸化した*28ものの存続した。クリア制度に保持されたクリア法は元来クリア長の集会で選出された王を各クリアで批准することであった*29が、共和政時代にはそれはコンスルなどのimperium公職の選挙の結果を承認することであった。このクリア法は、伝承によれば*30エトルスキ王政期には機能していなかったことが読み取れ、パトリキがこのクリア法を復活させたのは自身を特権化させる目論見でなされたのは明白である。平田隆一氏によれば、このクリア法による承認によってimperiumとともにius auspicii*31(ローマ市民のアウスピキア:鳥占いを行使する権利)を獲得したとされ、「アウスピキアはパトリキに帰る」(auspicia ad patres redeunt)という伝承*32が示しているのは、クリア制度を復活させる過程でなされた、アウスピキアの真の保有者がパトリキであるという主張宣伝に他ならないという。ローマにおいて国家行為を行う際には必ず神意が伺われねばならず、この際に用いられた方法が鳥占いアウスピキウムであった。このアウスピキウムの権限がパトリキだけの独占物であったなら、パトリキがローマの国政に大きな影響力を持ち得たことは想像に難くない。また中間王はローマ共和政以前に王政の存在を確証するものであるとともに王政期の名残である*33。ローマを統帥する立場にある者に認められるimperiumは後任者に途切れることなく受け継がれ、インペリム公職者が戦死するなど何らかの事情でこの連鎖がひとたび断ち切れるや元老院議員の中から籤で順番を決め五日間の任期で中間王interrexが立てられ、彼によって後任者たるべき人物を選出する民会が召集された。元老院議員の中でもこの中間王はコンスルを経験したパトリキ系議員に限られ、この中間王制の共和政時代最初の適用とされる*34紀元前四八二年、パトリキは上述のパトリキだけに認められた特権をもって彼らだけが正当のコンスルであるという主張を一般に適用せしめたのだという*35。すなわち氏に従えば、これ以後パトリキのカースト化、パトリキ-プレブスの身分闘争が始まるということになる。パトリキ貴族のカースト化を促進させる役割を演じたと思われるもう一つの概念として「父たちの承認」auctoritas patrumが挙げられる。共和政時代、民会での議決にはこのアウクトリタス・パトルムが与えられ、これをもってその議決は法としての効力を持った。マイヤーによれば、この承認権をパトリキ貴族だけが握っていたことはアウスピキアと関わりがあるとされ*36、またブライケンは、アウスピキアによって平民の要求を抑え込むための身分闘争上の武器として用いられたと主張している*37。すなわちアウスピキウムの大権をパトレスのみが保持していたことによって生じる権威こそがアウクトリタス・パトルムに転成したものと考えられる。

これらの議論を鑑みるにパトリキ貴族は王政時代の初めから変わらず握っていた自らの宗教上の特権*38を政治に適用することでコンスルなどの公職を独占しようとしていたことがわかる。上に挙げたクリア長の他にもパトリキ貴族は様々な神職を共和政の末期に至るまで独占しつづけており*39、これによる影響力が身分闘争終結後も大抵パトリキ系氏族がコンスル職に就任した事実に作用していることは間違いない。ミッチェルは、これをさらに大胆に解釈し、パトリキとは、純粋な聖職者の集団を指し、プレブスと相対する政治集団ではないとし、さらには両者の身分闘争すらなかったと断じている*40。この研究も「闘争の先入観」を排した試みのひとつとして評価できるが、しかし、古典時代の歴史に多く見られるように、宗教と政治は不可分であり聖職を独占していたことが政治的な優越につながることは当然ありうると考えるべきであろう。ただ、ミッチェルの指摘するように、パトリキがおおいに宗教的な存在であったことは間違いない。アウスピキウムの真の保有者はパトリキであるという自身の主張は彼らが聖職者であったことを考えればより納得がいく。彼のセンセーショナルで一面的な結論ゆえに見過ごされる考察の過程は無視できるものではない。恐らくパトリキは、当時のコンスルをめぐる権力争いを宗教的な論議に持ち込むことでパトリキでない者、すなわち宗教的特権をもたなかった者に対して優位に立とうと試みたのであった。

b.コンスクリプティ

では、パトリキが政治権力を求める際に争った相手とは誰であろうか。それは、多くの研究*41で周知の事実として認識されているように、コンスクリプティであった。コンスクリプティとは、字義的には「共に登録された者たち」の意であるが*42、歴史家は、彼らをコンスクリプティと呼ばれるローマの国政に一定の役割を果たした、固有の政治集団として定義しようと試みる。彼らは、パトリキとほぼ同程度の経済力を有し、エトルスキ王政時代に制定されたケントゥリア制度*43によって政治の舞台に登場したと考えられる*44、宗教的特権をもたない集団であった。ケントゥリア制度は、血縁的でもはや世襲化していたクリア制度とは違い、あくまで財産評価によって市民を分別する制度であり、これが兵制や選挙にも適用され、またクリア制度と同じく民会が付随した。この財産評価によって最上位に位置したパトレスに次ぐ評価を得た者も王の諮問会(後の元老院)に引き入れられ*45、またエトルスキ王政打倒後も議員数を大幅に減少させられた*46元老院を維持するために引き続き議席を保持した。このコンスクリプティについては共和政末期から議論*47があったのだが、近年モミリアーノによってある重要な提案がなされた*48。共和政初期のファスティに存在する平民氏族名がコンスクリプティを示している、というものである。コンスクリプティがコンスルに就任していたという証拠によって、パトリキとのコンスル職をめぐる闘争の構図はより明確になり、その存在が共和政初期のパトリキ=カーストの存在を曖昧にし、そしてそのカースト化の過程を我々に推測させるのである。彼らコンスクリプティは政治権力を握ることで自身の貴族化を望んでいたのであるが、多くの研究が指摘するように*49、パトリキ貴族のカースト化によってコンスルへの就任を阻まれ、貴族から平民に転落して闘争の地平を拡大することになるのであった。

c.プレブス

ローマの平民はプレブスplebsと呼ばれた。農民や手工業者、商人といった多種多様な、言い換えれば雑多な階層の総称であり、経済的にも同集団内でかなりの開きがあったことが推察される。なぜなら、ここまでで定義したように、パトリキ貴族と平民は経済力よりもむしろ宗教的な特権の差において定義されるからである。したがって、平民のなかにもパトリキ貴族に匹敵する経済力を持つ者がいたとしても何ら不思議はなく、彼らのなかにはコンスクリプティとして公職にも就任した者もいたと考えられる。しかし、平民全体をみれば、そのように経済的に豊かだった者はごくわずかであった。例えば同集団の中核である重装歩兵クラス*50は「一応の生活は安定していた*51」という程度であり、ましてや軽装歩兵クラスにもなると戦争や天災により債務奴隷nexi*52に転落する危険性を常にはらんでいたのである。それより下位のプロレタリーは言わずもがなであろう。彼らには政治に積極的にかかわるだけの経済的余裕はなく、政治的な欲求を抱いていたとは考えがたい。彼らの要求が日々の生活を少しでも向上させることに向けられたのは当然であったといえる。共和政初期の彼らの状況を端的に表現しているリシァルの言葉を引用しよう。「プレブスは、最初の市外退去を行い自らを組織する以前には、単にパトリキでないローマ市民としか定義できない*53」。そこでこの第一次市外退去の伝承を詳しく追ってみたい。

伝承によれば*54紀元前四九四年、それまで債務奴隷制nexum廃止の度重なる約束を履行しなかったパトリキ貴族に対し、プレブスは当時のディクタトルの召集命令を拒否し、聖山Mons
Sacerあるいはアウェンティーヌスの丘に武装して集団で移動。これがいわゆる市外退去secessioとされる。プレブスは、パトリキから派遣されたアグリッパ=メネニウスの説得によりローマ市に帰還、この結果、パトレスの就任できないプレブス自身の公職、護民官を選出すること、さらに彼らだけの民会である平民会concilium plebisを認めさせたという。またこの市外退去の際には、聖山において神聖不可侵の誓約lex
sacrataが結ばれて、護民官は神聖不可侵とされ、何人もこれを犯すことは許されなかったという。別伝*55はこの市外退去をパトリキが上級公職を独占していたことに対する政治要求であったとも伝えている。この二つの伝承において、前者のネクスムの廃止は(ネクスムの問題が社会全体を覆うほど一般的、あるいは恒常的な問題となるほどの貧困が当時のローマにあったことが前提条件であるが)重装歩兵クラス以下の一般的な平民の要求であり、後者はむしろコンスクリプティのそれであることが見てとれよう。これら別々の階層の要求が等しく平民の要求として伝承に記されていることは、まさにこの市外退去の頃にパトリキ貴族がカースト化を断行し、インペリウム公職を独占することによって、コンスクリプティが平民へ転落したことを物語っていると考えられる。また、本稿の主要な論題である、この年代に関する考証は後に譲るとして、少なくともこれが我々の知るプレブス最初の自覚的な行動であるのは間違いない。言いかえれば、市外退去こそが我々にプレブスを同定させる重要な契機であった。したがって、この市外退去を前後してパトリキおよびプレブスのカーストが形成されたと考えられ、それ以前に両者の身分闘争を定義することは不可能である。市外退去はローマ市分裂を引き起こしかねない*56重大な事件であった。パトリキ貴族の側に、プレブスに市外退去をさせるだけの不当があったということだが、それは市外退去の前に起こったパトリキ貴族のカースト化の過程にあったと考えられる。しかし、ローマ市分裂は回避され、かくしてローマの平民は、カースト化したパトリキ貴族に対し、自身を擁護し、平民内の諸階層の要求を実現すべく護民官職を勝ち得ることに成功するのである。

第二章 護民官の権能

この第二章において、私は共和政初期の護民官の基本的な事項に関する伝承および諸説を再考察してみようと思う。護民官とは、いかなる公職であったのか。伝承の経緯を見ればわかるように、平民諸階層の要求、例えばパトリキに独占されていた諸公職の開放や農地改革、パトリキの債務奴隷として連行を強要された市民の救援活動する公職が護民官であり、平民の擁護者であるとともに利益代表であった。護民官tribuni plebisの名称からその起源を推測する様々な議論があり、例えば、都市トリブスの長tribunusから発展したとする説*57、あるいは市外退去が武装蜂起であった点を鑑み軍団長tribuni militumに由来する説*58等がある。しかしながら、実際のところこの点に関しては確実な史料もなく、不明瞭と言わざるを得ない。その初期の定員に関しても伝承により異なっていて、紀元前五世紀の半ば(伝承によれば前四五七年、少なくとも前四四九年まで)に最終的に十名になったことが確実なだけである*59。護民官は、パトリキ貴族との政治上の平等が実現した後も、ローマの保守的な伝統にのっとり帝政期に至るまで存続しており、このような起源の不明瞭性に反して、後世の年代記作家が記した職務の内容や権限に関しては、ほぼ事実として受け取れるだけの説得力があり、現代の多くの研究者がこれに同意している*60。護民官は「神聖不可侵sacrosanctitasにして、その任務は両コンスルに対抗する(平民への)援助の提供auxilium ferendiたること、また、パトレスは何人もその公職に就くべからざること*61」とされ、すなわち護民官の本来的な任務とは平民をパトリキあるいはインペリウム公職者の迫害から擁護することであったことがわかる。この救援の権限ius auxiliiを実際に行使させるために、護民官には干渉の権限intercessioおよび拒否権vetoが認められた。これらの権限は、護民官が帯びた特性である神聖不可侵を根拠にしたがゆえに発生した権限であることがわかる。というのも、マイヤーが指摘しているように*62、護民官の設立当初、この干渉権は文字通り公職者から派遣されたリクトール*63と、危機にある平民の間に文字通り割って入るintercedere(干渉intercessioと対応する動詞)ことによって平民を擁護したのであり、これは神聖不可侵の護民官にして可能なことであったからである。また、拒否権は干渉権の延長としてパトリキの平民の迫害に該当するような行為自体を阻止するために派生した権限あるいは概念であると考えられる。他にも元老院の召集権や平民の裁判権といった様々な権限が派生的に現れているが、さしあたり平民の救援のための干渉権のみが先行していたと推考される*64。つまり、干渉することによって平民を救援するという特異な形式は、その職務を遂行するにあたってその神聖不可侵に依拠したがゆえに発生したのであり、神聖不可侵こそが護民官を特徴付ける重要な要素であることがわかる。

もう一つ重要な指摘を挙げておこう。リシァルによれば、護民官がローマの市域ポーメリウムpomerium*65より外に出ることを許されていなかったことと、公職者のもつimperiumとは対応関係にあるという*66。周知のごとく、コンスルなどのインペリウムを帯びた公職者がローマの市域から一歩踏み出すやそのインペリウムは無効とされ、ただ例外的に戦地に赴く場合にのみこの権限を携帯することが許されていた*67。このことと護民官がローマ市域内に留められたことは対応しており、というのも護民官の職務は常に公職者のインペリウムに対して向けられていたからである。インペリウムを盾とした公職者による不利益から平民を守るために護民官が設置されたこと、またその際の根拠となった神聖不可侵を考慮するとき、リシァルの指摘をさらに一歩進めて、公職者のインペリウムと護民官の神聖不可侵は対応すると考えても不自然ではないと思われる。護民官の神聖不可侵の最たる対象はコンスルなどの公職者のインペリウムであったという基本的な認識を私はここで再確認しておきたい。

ではなぜ護民官は神聖不可侵たり得たのか。護民官設立の経緯を見れば、やはり市外退去の際、「神聖不可侵の誓約lex sacrata」が結ばれたという伝承*68は「神聖不可侵」と深くかかわっていると考えねばならないだろう。市外退去はローマ以外の都市においても見られ、この現象は身分闘争の際に用いられる汎イタリア的な習俗であったというアルトハイムによれば*69、各地の市外退去の際にはそれを指揮する武装した長によって生贄や離脱者の即時刺殺を伴う「いささか背筋の寒くなるような*70」宗教的儀式が執り行われたという。またローマの市外退去の地は聖山、もしくはアウェンティーヌスの丘とされる。聖山が実際にどこを指すかは不明なものの、その名称が示す宗教的な性格や、あるいはアウェンティーヌスの丘にはCeres、Liber、Liberaの平民の三柱神を祭る神殿があったとされる点など、どちらもそこで宗教的儀式が執り行われたと推測させるに足る地でもある。市外退去の際にlex sacrataの誓いがあったという伝承を否定する格別な理由はないと思われる。我々は、宗教的儀式をともなったとされる市外退去以外に、護民官が神聖不可侵性を獲得した経緯を説明できる伝承を持っていない。したがって、護民官の神聖不可侵性は、市外退去と深く関係していると考えざるをえない。

護民官がその職務を実行する際に、法による後ろ盾ではなく、宗教的な誓約に基づいた理由として、経緯からして半ば脅迫的にその公職を成立せしめたということもあろうが、むしろ、パトリキ貴族がカースト化した際に、自身のアウスピキアや聖職の独占などといった宗教的特権を多分に行使したことが強く影響していると考えられる。なぜなら、パトリキ貴族の排他的な身分は、法ではなく上述したような宗教的な権威mos maiorum「父祖の威風」に基づいて成立しており、平民も自身をパトリキ貴族に対抗しうる集団に成長させるためにそのような宗教的な権威を身に付ける必要があったのではないかと考えられるからである。

第四章 護民官の確立時期に関する年代記および諸説の問題点、新たな考察

前章で取り上げなかった護民官に関する基本事項がもうひとつ残っている。それは、いつ護民官は設立されたのか、という問題である。我々は、ここまでで確認した護民官の諸要素がすべて合致しうる時期を慎重に設定しなければならないだろう。

年代記著作家は、護民官の創設を、最初の市外退去の年とされる紀元前四九四/三年に帰している。またこれに同意する研究者も少なくない*71。しかし、彼らはこれからとりあげる問題点を明らかに軽視、あるいは無視している。伝承は、上に述べたごとく市外退去を債務奴隷制ネクスムに端を発する出来事として記している。しかし、この時期にネクスムの問題を社会全体の問題と捉えうるほどローマの経済状態が悪化していたのかという疑問がある。確かに、リシァルが指摘するごとく*72、共和政開始当初から戦乱が絶え間なく続いていたことは間違いない。しかし、考古学的資料によれば*73、エトルスキ王政時代から共和政成立後の前四七〇年代半ば頃まで、エトルリア経由でのギリシア陶器輸入が盛んに行われており、前四九四年はまさにエトルリア経済の繁栄に浴していたものと考えられ、伝承が記述している神殿の相次ぐ建立*74はそれを如実に物語っていると推察される。あるいは農民たちの中に、戦乱で土地を奪われるか、兵役による労働力の不足から債務奴隷に陥るものが全くなかったとは言えないが、平民の主要な構成員であったとされる商人や手工業者は、間違いなく経済繁栄の恩恵を享受したであろう。ましてや市外退去が武装蜂起による兵役拒否であるならば、武装を自弁する経済力を維持した重装歩兵クラスまで団結した市外退去は考慮しがたい。平田隆一氏は、この経済的繁栄と、伝承がネクスムに端を発した問題としながら、市外退去後に全くネクスムに関する記述を欠いていることから、ネクスム問題が社会全体の問題ではありえなかったとし、また前四九四年および四九三年のコンスルに平民氏族、すなわちコンスクリプティが就任していることを考え合わせてこの時期にプレブスが一致団結する理由が見当たらないことから、前四九四年の市外退去を否定している*75

この他にも、古くはベイエなどの研究者*76がこの時期の市外退去の可能性を否定している。共和政開始からわずか十五年後の元老院において、多数の王政時代以来のコンスクリプティが議席を確保していたであろう前四九四年以前に、パトリキのカースト化が起こったとはとうてい考えがたく、この年と次の年のコンスクリプティのコンスル就任は、まさにそれを証明している。すなわち、この時期にパトリキ貴族および(コンスクリプティまで含めた)プレブスの身分闘争を確認することは不可能であり、この前四九四年の市外退去の事実を否定する意見はまさしく妥当であり、護民官の設立を前四九四/三年とするのは時期尚早である。

では、上述した研究者が揃って護民官設立の年次に挙げている、紀元前四七一年はどうであろうか。伝承によれば*77、初めて護民官をトリブス民会comitia tributa*78において選出したのが、この年とされている。その二年前の前四七三年には、護民官ゲヌキウス暗殺の記事が見える*79。それによれば、平民たちは護民官の神聖不可侵をパトリキに犯されたことよりも、むしろ同僚護民官の沈黙に怒り、失望している80。この当該記事は、神聖不可侵を犯した者の処罰sacer estoが行われなかったばかりか、護民官の神聖不可侵などは存在せず、そもそもこの時、護民官そのものが存在していなかったことを示しているという*81。平田隆一氏はこれを受けて、護民官の設立をこう説明している*82。紀元前四八二年の中間王制の実地の適用以降、パトリキ氏族によるコンスル職就任が前四七〇年まで継続しており、これはパトリキのカースト化、インペリウム公職の独占であるという。また前四七四年のキュメー沖海戦でのエトルリアの敗北でローマの経済も打撃を受けたと考えられ*83、確かにこの時期のローマの平民には一致団結するだけの条件が整っていたように見える。前四七三年以降、平民の要望から提案されたトリブス民会において護民官を選出する法案をめぐるパトリキ貴族と平民の闘争こそが、ローマの「身分闘争」の始まりであり、この法案は護民官設立そのものを示しているのだという。つまり、ここでの平民の要求は、彼ら自身で選んだ非公式の平民指導者をトリブス民会という正規の民会で選出することによって、国家の正式の公職とすること、すなわち平民指導者を「護民官」にすることにあったのだという。さらに氏によれば、パトリキを代表するアッピウス=クラウディウスによって、護民官は国民のではなく平民の公職者であり、従ってコンスルへの拒否権は認められないという主張がなされたものの、元老院内部でことを穏便に収めようとする一派が主流を占め、結局、全市民が参加するトリブス民会comitia 民だけが参加する平民会concilium plebis tributaでの護民官の選出結果を平民会自体の存在も含めて(法的に認定するのではなく)国制外政治組織として黙認するという形で妥協したと推察している*84

しかし、この推察にはいくつか疑問点がある。まずトリブス民会であるが、この民会は伝承によれば、上に述べた前四七一年の件が初出であり、成立事情に関する伝承は皆無である。地区tribusごとの在住市民を基礎単位とし、ローマの主要な民会である他のクリアやケントゥリアのそれに比べて、より平民の意見が反映されやすい民会であった。また同じくトリブスを基準とし、平民だけが参加した平民会concilium plebisも存在し、comitia plebis tributaとも呼ばれる*85。この二つの民会は混同され、伝承中に出てくる民会がどちらを指すのか不明な場合が少なくない。このトリブス民会が前四七一年当時にローマの正式な民会たる格式を持ち得ていたのだろうか。トリブス民会は投票手続きの簡便さという点でケントゥリア民会より優れていたために、次第にトリブス民会が利用されることが多くなったという。少なくとも前二八七年のホルテンシウス法からSullaの時まで、ケントゥリア民会で可決された法案は一つも知られていないし、また、後世にはコンスル、プラエトール、ケンソルなどの上級公職以外の公職はトリブス民会で選出されるようになったという*86。しかし、このトリブス民会が国政の大部に関与するようになったのは、あくまで、手続きの簡便さゆえのことであって、十二表法の記述にあるように*87、少なくとも十二表法以前のローマにおいては正式かつ最高の格を持った民会はケントゥリア民会であり、トリブス民会は自然発生的な、いまだ非公式の民会であった可能性が高い。仮に当時から正式なものとして認められていたとしても、ケントゥリア民会で選出されたコンスルなどのインペリウム公職に対抗できる根拠を、ましてや平民だけが参加する平民会で選出された護民官が持ちえたのかという疑問が残る。なるほど、護民官が根拠としたのは神聖不可侵の誓約という宗教性であり、法や民会での選挙といった正式なものではありえなかった。しかし、であるならばなおさら伝承のトリブス民会での選出という記事を護民官設立の契機と読み取ることは不可能である。氏はさらに、護民官の神聖不可侵を市外退去ではなく、トリブス民会選出の法案をめぐる「広場における民衆の蜂起*88」であるとしているが、当然、パトリキも同じ場所に存在していたであろう広場で、平民指導者を神聖不可侵にするための儀式が執り行えたかどうか疑問であり、たとえ執り行えたとしても、その儀式の秘密性は保ち得なかったであろうし、聖職者集団であり、その権利を独占していたパトリキの監視下で平民がどれほどの儀式をできたかも疑問である。氏の議論には、市外退去を経ずにいかにして神聖不可侵を得たか、という説明が不足しているように思われるのである。前四七一年に市外退去があったと想像する議論*89についても、そのような伝承はまったくなく、論理に飛躍があり、また、これから挙げるもうひとつの根本的な疑問に答えられないだろう。

非常に基本的な認識として、市外退去はパトリキ貴族の不当に対する報復行為であったことを想起してもらいたい。前四七一年までの護民官の設立を想定する学者は、当然パトリキ貴族のカースト化や最高公職の独占を、当然それ以前に起こったこととして設定しているが、果たして彼らは制度、あるいは法として恒常的に最高公職の独占を試みたことがあったのだろうか。確かに、パトリキ貴族は自身の宗教的特権を利用してコンスル職の占有を試みたことは明白である。しかし、彼らのそのような特権はローマ市民にとっては権威auctoritasとして受け止められ、その意味では実力でコンスル職を勝ち取ったのであり、あくまで不当ではないやり方で権力を占有したのであって、パトリキのみがコンスルにつくべしとする法が共和政史上一度も示されなかったことは周知の事実である。実際、前四七三年の「護民官暗殺」の伝承が示しているように、平民たちはむしろ自らの力不足を嘆いたのであった。実際に前四八五年から前四七〇年までパトリキ系のコンスルが続いているが、前四六九、四六一、四五八、四五七、四五四年にはコンスクリプティがコンスルに就任している。これを前四七三年以降に始まった身分闘争の末に平民が勝ち得た結果と見る*90ことも可能だが、それならコンスルのインペリウムに対抗するために創設されたはずの護民官の存在意義をいきなり世に問うことになるし、前四五七年というコンスクリプティのコンスル就任可能だった時期に「護民官」の定員を五名から十名に増員したとする伝承*91をどう説明するのだろうか。また、前四八五年から続くパトリキ氏族のコンスル職就任だが、法的に平民のコンスル就任が可能であることを明示した前三六七年の改革(リキニウス・セクスティウス法)以後に、新たにコンスルに就任した平民氏族がほんの数家系に過ぎず、依然として、パトリキ系氏族が圧倒して数的優位を保っていた*92ことを考えれば、前四八五年からのそれをパトリキ貴族の独占と言い切るのは早計に過ぎはしまいか。すなわち、これをもってパトリキ貴族が最高公職を独占する政治的な身分としてカースト化した、と言えるほど十分な証拠とは考えられず、よって、固定的なパトリキ-プレブスの身分闘争はまだこの時期には確認し得ない。あったとしても集合分離を繰り返す流動的な集団の闘争という希薄なものでしかありえなかったであろう。したがって、当然このとき市外退去は行われなかったと考えるべきであり、この前四七一年をもって護民官設立の年とすることはできないのである。

前四五四年までコンスル職にコンスクリプティが就任している事実は、いまだ最高公職への道がパトリキ以外の者に閉ざされていなかったこと、この時期までパトリキとコンスクリプティの間に政治権力をめぐるせめぎあいがあったことを示す。市外退去は、コンスクリプティの平民転落以後のことと定義されるので、したがって、おのずとその時期は限られてくる。伝承によれば紀元前四五一年、「再び市民団の体制が改まり、命令権(インペリウム)は王からコンスルに帰した如く、今やコンスルから十人委員decemviri legibus scribundis(法の書き上げのための十人委員)に移る*93」。法の書き上げを望む平民の強い要求を受けて就任した十人委員は民会提訴provocatio*94に服さず、また、他の公職者はその間まったく選出されなかったという(Liv. 3, 31-33.)。ローマは成文法の制定という市民団の新秩序創出のため、十人委員に全権を委託することを決めたのであった。それまでパトリキ貴族が握っていた法知識の解放が目的であるがゆえに、十人委員はすべてパトリキ氏族からなり(Liv. 3, 32, 7.; Dionysius, H. 10, 56.)、その筆頭は前四七一年に平民の要求を激しく拒みつづけたコンスル、アッピウス=クラウディウスであった。彼らは、ローマに成文法の登場を告げる、かの十二表法leges duodecim tabularumを制定する。しかし、周知のごとく、この法律はあらゆる点で平民の期待を裏切るものであった。前四七四年のキュメー沖海戦の敗北によるエトルリア経済圏の縮小後、次第にローマは経済的にギリシアのそれにも属さない空白地帯に置かれたと推察され*95、また前四五六年の降雨不順による食糧不足、前四五三年の飢饉と疫病*96はローマの経済に多大な打撃をもたらしたであろう。この時期に債務奴隷に陥った平民はかなりの数にのぼったものと考えられる。第三表の記すごとく債務奴隷の規定は一般的な平民を失望させ、その不満をさらに煽ることになったであろうし、第十一表のパトリキとプレブス間の通婚conubium禁止の規定はパトリキがコンスクリプティの貴族集団への参入禁止を公式に宣言したに等しい。前四五〇年には一応しかるべき選挙を経て選出された(アッピウス=クラウディウスは再選を果たしている)ものの、プロウォカティオから免れていることを盾に前四四九年には選挙を経ることなくその任期を延長した。ここに初めて、しかもプロウォカティオの効かない無制限のインペリウムをパトリキ氏族によって不当に独占される状況が生まれるのである。すなわちこのとき、彼らパトリキ貴族は強権でもって自身のカースト化を断行したのであった。かかる状況をして初めて平民の一致団結、そして「市外退去」を想定するに足る条件が整うことになり、前四九四年の伝承が発端とした諸事実はまさにこのときにこそ当てはまる。事実、年代記は紀元前四四九年に二回目の市外退去を伝えており、一回目の市外退去が上述のごとく否認される以上これが最初のものと同定され、よってこのとき護民官は創設されるのである。

以上のような状況から推察されるこの新たな提案を様々な物証を挙げて検証してみよう。第二次市外退去において平民はまず聖山Mons Sacerに、そしてその後アウェンティーヌスの丘*97へ移動したという*98。伝承によれば*99前四五六年アウェンティーヌスの丘を平民の居住区とする法案が通過している。ここに先に述べた平民の神を祭る神殿があったことを考えれば、この前四五六年の法案可決以降この地に平民が集結したのはまったく自然なことであっただろう。また伝承が我々に伝えているように*100、一回目の記事とは違いこの二回目の市外退去は最初から神聖不可侵の護民官を実現させる目的でなされた行動である。これは当時の十人委員がプロウォカティオ権を欠いたインペリウム公職であったことを想起すれば当然の行動であることがわかる。つまり、十人委員に対するプロウォカティオ権が効かない以上、そのインペリウムに対して効果を発しうる絶対的な力、すなわち神聖不可侵性を護民官に付与する必要があったからである。このような護民官設立の経緯を考慮すれば、十人委員政が廃されて以後、ローマ市民、特に平民はプロウォカティオ権と神聖不可侵の護民官とに擁護されるという、現代の我々にはいささか余分に感じる*101インペリウムへの防御策を持っていたことは怪しむに足りないのである。さらに年代記(Liv. 3, 55, 6)にある、前四四九年の「彼ら(護民官)が神聖不可侵と見なされるべきことも復活した。このことの記憶はすでに殆ど消失していたが、ある儀式を長い中断から再興したのである」という記述は、それがどれほどの長さであったかを知る由もないが、もはや神聖不可侵などそれ以前には存在していなかったと考える他ない。なぜなら少なくとも前四七三年にはなかったと言える神聖不可侵を、前四四九年の市外退去以外に獲得しうるような出来事が存在しないからである。リヴィウスは前四九四年に護民官が設立されたという自分の記事と辻褄を合わせるためにこれを挿入したとしか思えないのである。最後に、市外退去解消後に成立した法、lex Valeria Horatiaとの関わりについて指摘しておきたい。この法はプロウォカティオに関する規定*102、平民会の議決plebiscitumが国民を拘束するという規定*103、護民官を侵害した者の頭はユピテル神に捧げる規定*104を含んでいる。このうち二つ目については、ローマの民主化の頂点を示す前二八七年のホルテンシウス法に明記された規定と同じ内容であることから、前四四九年に平民議決が全国民を拘束する法があったとはとうてい考えられず、存在そのものが疑問視されている*105。しかしローマの法が個別的で当該事件における規範として効力が限定されるのが常であったという指摘*106を考慮すれば、この規定はプロウォカティオのない公職者の就任を禁じ、神聖不可侵の護民官の設立を決めた平民会の決議についてのみ、ローマ市民全体の法として認めるという意味にとるべきである。すなわちこれは平民会の議決が正式の法としてローマ市民全体を拘束した最初の事例と考えられ、したがってこの法が直ちに平民会議決の即時国法化を示すものでないことは明らかながら、少なくとも平民会をローマの四つ目の民会としてパトリキ貴族が国家にその存在を公認したことを示している。このように考えれば市外退去後に護民官とあわせて平民会を認めさせたという諸伝承の記述とうまく合致する。紀元前五世紀前半の伝承においておしなべて護民官の定員が一致していないという事実は、それが制度ではないたんなる平民指導者のそれであったために起こったと考えられる。制度としての護民官は、その誕生から十名であったのであり、これは十人委員と何らかの関わりがあるものと推測される。

以上に挙げた状況および様々な史料を見る限り、護民官の設立は前四四九年以外に考えられないのである。私は、護民官が前四四九年の市外退去を機に設立された平民の公職者であるという結論を本稿における最大の提案としたい。

護民官の意義は何か。パトリキが宗教的な特権によって権威auctoritasというアイデンティティを手にしたように、ローマ市民団内の雑多な集団は「市外退去」をもって初めて平民plebsとなり、市外退去の際に生まれた護民官はまさに彼らのアイデンティティであった。神聖不可侵の護民官によって擁護された平民が誕生したとき初めて数々の特権を独占していたパトリキに対抗しうる集団となったのであり、したがってローマの「身分闘争」はこのとき始まるのである。つまりこれまでに述べた護民官の考察から、我々は少なくとも前四四九年以前に固定的なパトリキ―プレブス間の身分闘争を定義しえないのである。ただ、断っておきたいのだが、私は前四四九年以前の護民官の事績とされる伝承を全面的に排除するものではないということである。古代という時代は混沌を常としており、我々の整合的な理解の試みに対して本質的に反発しているのである。つまるところ、それは神聖不可侵sacrosanctitasを帯びない、それゆえに実質的にはパトリキに対して何の効力も持たなかった平民指導者のものである。我々の認識する護民官の実像と食い違う様々な伝承は、制度を持たないたんなる平民指導者のものと考えるべきである。それまで定まらない形で政治の舞台に登場した多数の平民指導者は、前四四九年のこの事件以後、その政治活動の根拠と形式を与えられ、年代記著作家の時代のローマ人および我々が認識する護民官の姿になったと考えられる。

【註】

(1) 本稿では、本邦にて慣習的に用いられている平民トリブーヌスtribuni plebisの訳語である護民官をその名称として扱うこととする。
(2) 鈴木一州訳、リヴィウス「ローマ市建設以来の歴史」(『論集』21、1978年、神戸大学、1-25頁)における13頁の註によれば、マギストラートゥスmagistratusの慣用訳「政務官」は適切ではないという。「マギストラートゥスは民会で選挙され、任期(一年間)内に限り、無給の名誉の公職につく。上級権力者(王、天皇など)に任命され、その代行者ないし使用人として下命を果たす職業的「官吏」「官人」とはまったく異なる建前に立つ。また、その職務が広汎にわたり、代表的マギストラートゥスたるコンスルでいえば、軍隊を指揮し、神々に対して市民団を代表し、決してたんなる「政務」担当者ではない」。この認識を本稿でも採用し、マギストラートゥスの訳語として「公職者」をあてることとする。

(3) E. Meyer, Romischer staat und Staatsgedanke, 3 aufl., Zurich/Stuttgart, 1964.(E.マイヤー『ローマ人の国家と国家思想』鈴木一州訳、岩波書店、1978年、33-37頁。)

(4) A.Momigliano, “The Rise of the plebs in the Archaic Age of Rome”, Raaflaub,
K. A. (ed.), Social Struggles in Archaic Rome, New Perspectives on the Conflict of
the Orders, Berkeley/Los Angels/London 1986, (以下Rise of Plebsと略記) pp.176-177. 他にはCincius Alimentusやケンソルのcatoなど。

(5) マイヤー、前掲書、21頁。

(6) ローマ人は、氏族を伝承上の人物を祖先とする男系の血縁集団であると考えており、たとえばカルプニウス氏はヌマ王の息子カルプスの子孫と称される。氏族は共通の祭祀と墓地を有し、構成員の家産にたいする潜在的な請求権を持つ親族集団であったとされる。(島田誠「ローマ市民団」、56-57頁。(弓削達・伊藤貞夫編『ギリシアとローマ古典古代の比較史的考察』河出書房新社、1988、53-77頁。) 氏族を指す言葉としてゲンスgens(pl.,gentes)があるが、他にもゲヌスやスティルプスなどの語が用いられることがある。

(7) Livius(以下Livと略記), 10, 8, 9. この記述が、氏族組織がパトリキのみからなるという考えを支持する証拠となっている。しかし、この記述は俄かには信じがたい。; Plutarchus, Romulus, 13. によれば、ロムルスによって指名された百人の相談役をパトリキウスと、そしてその集まりをセナートゥス(元老院)と称した。相談役がパトリキウスと呼ばれた理由に、三つの見解、すなわち嫡出子の父であった、自分の父を示すことができた人々であった、パトロヌス(親分、保護者)の身分からきたものであり、ロムルスはプレブス(平民)を庇護民クリエンテスとして分配した、を示している。

(8) E.Gjerstad, Early Rome, Ⅳ Historical Survei, Lund, 1973.(『ローマ都市の起源』浅香正訳、みすず書房、1983、56頁。)によれば、諸々の考古学的証拠から氏族組織がローマ誕生以来存在したという説を否定している。さらに、クリア制度は一般に言われている氏族ではなく、家族を構造上の単位としたという。

(9) マイヤー、前掲書、21-23頁。 パトリキのみが家族と氏族による組織を公認の法的制度として持っており、パトレスは氏族内の家父長を指す言葉であるとしている。しかし、リシァルはパトレスが氏族内に限られた呼称であるかは疑問としている。;J.-C.
Richard, “Patricians and Plebeians: The Origin of a Social Dichotomy”, K. A. Raaflaub(ed.), Social Struggles in Archaic Rome, New Perspectives on the Conflict of the Orders, Berkeley/Los Angels/London 1986, pp.105-129.

(10) A.Momigliano, “The Origins of Rome”, The Cambridge Ancient History,2nded., vol.7
part2, 1989, pp. 52-112.(Originsと略記)など。

(11) 共和政期のローマ人は最高位の公職者の名で年代を表示し、これらの名前を表(fasti)に記した。ファスティは様々な経路で今日に伝わっている。残存するファスティはひとつひとつを取ってみると不完全で大きな欠損を含むが、それらを突き合わせると、歴代最高位の公職者の名がほぼ完全な形で再現される。

(12) Richard, op. cit., pp.105-110.が引用する過去の研究は、パトリキ系氏族の数として五十四から百十四を数えている。リシァルは王政時代の元老院議員の定員が百名であることとパトリキ系氏族がおよそ百であることに因果関係を認めている。

(13) 前四世紀以前のファスティに関しては、各年の最高公職者の数や名前の読みをはじめとして伝承間の不一致が少なくなく、脱落や改組の可能性も否定しきれないものの、それでも研究者の多くは古い部分についても基本的にファスティの信憑性を信じ、歴史を再構成するうえでの出発点としている。例えば、平田隆一『エトルスキ国制の研究』1982年、南窓社、168-173頁によれば、少なくとも前五〇三年以降のファスティのコンスル名は真正であると考定されるという。氏は前五〇四年まで王政が続いたとする。

(14) イェシュタード、前掲書、54-58頁。

(15) G. De Sanctis, Storia dei romani, I2, 1967, Firenze, 228f.

(16) 諸伝承によれば、クリア制度は初代ローマ王ロムルスが市民団を三トリブス(tities, ramnes, luceres)に分け、各トリブスを十クリアに区分したことに始まるという。これらの区分は軍事単位でもあり、また各クリアにはクリオ(クリア長)がおかれた。リシァルによれば、curiaeの語源はko(co)-wiria「人々の集まり」「青年男子の集団」であり、市民団を意味する語Quiritesと結びつくという。キケロの時代になると、ローマ人は自分がどのクリアに所属しているかさえ忘れ去られ、クリア民会はパトリキ系のコンスルのリクトル三十名を召集して各クリアを代表させたという。

(17) R. E. A. Palmer, The Archaic Community of the Romans, Cambridge, 1970.

(18) Richard, op. cit., p.108.

(19) Richard, op. cit., pp.108-109.; イェシュタード、前掲書、60-61頁。クリア長は二月に催されたfornacalia祭などのクリアのための公的礼拝や祭礼を取り仕切る祭司であった。リシァルはこのfornacalia祭とquirinalia祭が密接に関係しているとして、クリア制度が王政時代にはローマの全市民を内包するものであったことを指摘している。

(20) ローマの王政時代は、一般にロムルスに始まるラテン人およびサビニ人の王を戴いた時期をラテン-サビニ王政期、タルクィニウス・プリスクスに始まるエトルリア系の王が三代にわたり続く時期をエトルスキ王政期と呼ぶ。その期間については多数の議論があるものの、年代記に従えば紀元前七五三年から紀元前六一七年までが前者、紀元前六一六年から王政が転覆する紀元前五〇九、八年が後者となる。

(21) 平田隆一、「国家権力と宗教」、30頁。

(22) Palmer, op. cit., p.82, 207.

(23) Palmer, op. cit., p.202, 207, 213, 253.

(24) Cicero,de legibus,2,12,31. などに古来からクリア民会に存続したクリア法に関する言及がある。マイヤー(前掲書、95-96頁)によれば、インペリウムの語は原初的な宗教・呪術の分野に由来し、支配者に内在するとされた人民を支配し、戦いを勝利に導く特殊な呪術的能力を指し、またインペリウムはあらゆる権限を包括し、後にはさらに支配者の地位と結びついた諸権能を含んでいることが必然的に結論され、すなわちこれは王の力を指す言葉であるという。インペリウムの本源的標識は槍hastaであり、インペリウム保持者はそれを携えた。

(25) Interrex(中間王)は王政時代を想像させる「王」という名称、中間王の在任中は他のすべての公職者が職を辞したことなど、ローマに王政の存在したことを明らかにしている。王政時代、王位の引継ぎに際して先の王が持っていたアウスピキア(鳥占い)などの権限はいったんパトレス階級に受け継がれ、彼らが次々に中間王interrexに就き最終的に次の王を指名したという。最高公職者が何らかの事情で正常に後任者に引き渡せない場合、元老院内のパトリキで、十二表法の十二表第一条によればコンスル経験者の議員のなかから籤で順番を決めて中間王を立てた。任期は五日間と短く、在任期間が終われば次の候補者に中間王職を引き渡した。中間王には民会の召集権があり、この手続きのあいだに新しいコンスルを選出する民会を召集した。マイヤー、前掲書、129-130頁。

(26) エトルスキ王政期の諸王はパトレスが支配していた諸制度、特にクリア制度を形骸化する様々な施策を打ち出したものの、それ自体を廃止するということはなかった。詳細に関しては註27を参照のこと。

(27) Palmer, op. cit., p.248. パトリキとは前三六七年以前に公職に就任し、クリア長であり、「父」であって、平民公職に就任した先祖がいなかった氏族であったと規定している。つまりパトリキのカースト化を前三六七年まで引き下げているのであるが、これについては首肯できない。パーマーは身分闘争はいわば貴族階層の内紛であり、前三六七年までの内紛の原因は、どの氏族が主要公職・主要祭祀職に就く権利をもつかであったとしているが、パトリキは本来的に聖職者であったのであり、だからこそ公職に就任し得たのである。したがって宗教的な特権の所有に関して元来明確な違いをもつパトリキとコンスクリプティを同等の集団とみなすことはできない。

(28) エトルリア系の王と、ローマに昔からいたラテン・サビニ系のパトレスとは対立関係にあり、特権的地位にあったパトレスに対して王はこの時期大量に流入した主にエトルリア人の移民と結ぶことで対抗した。例えばタルクィニウス・プリスクスは、都市が建設されたときに組織された三つの騎兵百人隊(ラテン-サビニ王政期の古い三つのトリブスであるRamnes、Tities、そしてLuceresそれぞれにあって、クリア毎に組織された)に新しい騎兵百人隊を加えようと計画していた。しかし当時の卜占官アットゥス・ナウィウスは、最初の百人隊は卜占による承認を得て組織されたものであり、それゆえ再度卜占官の諮問なくしていかなる変更も考えられないと主張した。プリスクス王は組織の変更を避け数をに倍することによって宗教上の障害を回避したとされる。イェシュタード、前掲書、139頁。
またRichard, op. cit., pp.114-120. によれば、十八の騎兵百人隊のうち、sex
saffragiaと呼ばれた上位の六つは、以前のクリア制度の三トリブスを二倍しただけであって、そこでは以前と同じように旧クリアの世襲的なルールに従っていたという。すなわち、パトレスの握っていた特権は削られながらも、形だけは失わなかったことがわかる。

(29) 平田隆一氏(「初期ローマ共和政における国家権力と宗教―imperium, auctoritas, auspicia, intercessio, sacrosanctitas―」、(佐藤伊久男・松本宣郎編『歴史における宗教と国家―ローマ世界からヨーロッパへ』南窓社、1990、19-50頁、以下「国家権力と宗教」)33頁)はパーマーの説を受けてクリア法をこのように定義している。

(30) 伝承によれば(Liv. 1, 46,1., 1, 49, 3.)セルウィウス王もタルクィニウス・スペルブス王もクリア法および中間王による指名の手続きを踏んでいないとされる。

(31) マイヤー(前掲書、100-102頁)によれば、戦場で全軍の安危を賭けるといった重大な国家行為には決して欠かせないこととされ、この鳥占いを怠ったり、手続きを誤ったり、あるいは好ましくない鳥占いの結果をおして行動したりすると、重大な災厄を招くと考えられ、ローマ人は一般に災厄をそうした非違に帰した。私的な鳥占いははやくに廃れ、この言葉は事実上、国家行為のための前兆を観察する権限だけを指し、auspicia populi Romani(ローマ市民の鳥占い)と呼ばれた。

(32) Liv. 6, 41, 5.; 4, 6, 2.; Cicero, domo, 38. 鳥占いによって神意をうかがい知る権利は元来パトリキにしかないとされ、国家行為を行う公職者へ託されたこの権利が前任者から後任者へと健全に継承されない場合、「鳥占いは父たちに帰」った。この際、パトリキ系の元老院議員によって中間王が指名され、鳥占いの回復を図った。

(33) A. Drummond, “Rome in the Fifth Century I: The Social and Economic Framework”,
The Cambridge Ancient History, 2nd ed., vol.7, part 2, 1989, pp. 113-172. (p.158-9.) ローマに共和政が始まってからも、rex sacrorumあるいはsacrificulusと呼ばれたいわゆる宗教王がいて、王の家regiaに住み、以前は王が執り行っていた宗教的な行為のために存続した。中間王制とあわせて、このような証拠は確実にローマに王政時代があったことを物語っているとし、また王の持つ神聖な側面を強調している。私見だが、エトルスキ王政期、王は平民と結ぶことでパトレスに対抗したことが窺えるのだとすれば、王政廃止によって平民が失ったものは何より神聖さによる庇護、あるいは宗教性に基づく行動の根拠だったと考えられる。

(34) Liv. 2, 42, 10-11. この前年の前四八三年、ウェスタの巫女オッピアの姦通が発覚し、天変の原因とされ処刑された。鳥占いに重大な害悪をもたらしたとして、「神々に対する乱された関係をアウスピキアの更新によって回復するため」、中間王制が導入されたという。伝承によれば前五〇九年にも中間王制が採用されているが、一般にこれは信用されず、この前四八二年のものこそが共和政期の初出であるという。

(35) 平田隆一「国家権力と宗教」、35-36頁。

(36) マイヤー、前掲書、172-173頁。

(37) J. Bleicken, Die Verfassung der romischen Republik, Paderborn, 1975.(J.ブライケン『ローマの共和政』村上淳一・石井紫郎訳、山川出版社、1984。)

(38) イェシュタード(前掲書、114-120頁)はラテン―サビニ王政期から存在が推測される聖職として、卜占官augres、神祇官pontifex、上下級神官flamen、サリーsaliiなどを挙げている。これらはエトルリアから導入された聖職ではなく、ウムブリアやサビヌス人の領地、アルバ・ロンガなど中央イタリアの各地に確認できる汎ラテン的制度であるという。ローマ人は臓卜者がエトルリア起源であることを認めたが、卜占官の規定がエトルリアからの輸入であることを否定した。卜占アウグリムはしばしば鳥占いと同一視され、またこの規定は広くインド-ヨーロッパ諸種族一般に知られており、すなわちラテン人がイタリアへ到来した際にすでに鳥占いを知っていたことを意味するという。つまり、エトルリア人がローマの玉座に君臨する以前のローマ人によって鳥占いが行われていたことを示し、古来の貴族であるパトリキがこの権限を独占していたことを傍証する。

(39) 祭司職の平民への開放は、pontifexおよびaugur卜占官(前300年)、pontifex maximus(前254年)、curio maximus(前209年)など。法的にこれらの祭祀職が平民に開放されても、実際に就任するのは後のことであり、最高祭司職であるrex
sacrorumや、最高国家神ユピテル、マルス、クィリーヌスIuppiter, Mars, Quirinusをまつるflamenフラーメンや、祭司団サリーSaliiなどはパトリキ貴族が就くべき職とされた(マイヤー、前掲書、178-179頁)。また、ミッチェルによれば、共和政末まで少なくとも五十以上の祭司職がパトリキ貴族によって独占されていたという(R. E. Mitchell, “The Definition of patres
and plebs : An End to the Struggle of the Orders”, Raaflaub. K. A., ed., Social
Struggles in Archaic Rome, New Perspective on the Conflict of the Orders , Berkeley/Los
Angels/London, 1986, pp. 163-164.)。

(40) Mitchell, op. cit., pp.130-174.

(41) Richard, op. cit., p. 124; A.Momigliano, “The Rise of the Plebs in Archaic Age
of Rome”, Raaflaub. K. A., ed., Social Struggles in Archaic Rome, New Perspective on the Conflict of the Orders , Berkeley/Los Angels/London, 1986, pp. 175-197.(以下”Rise of Plebs”と略記。); 平田隆一「国家権力と宗教」など。

(42) qui patres, qui conscriptiあるいはpatres conscripti(Liv. 2,1,11.; Festus, p.304L)これはキケロの時代にも元老院議員を呼びかける際の決り文句として残っており、一般にパトリキとともに元老院議員の名簿にともに登録された者として、中間王などの特権を有したパトリキ系議員より一段低い下級の元老院議員をなしたという。Momigliano, “Rise of Plebs”, pp. 185-6.は彼らを平民ではなく王政時代に起源を持つ固有の集団であったとする。

(43) この制度の創始者は伝承によればセルウィウス王に帰され、また基本的に現代の研究者(H. M. Last,”The Servian Reforms”, The Journal of Roman Studies, 35, 1945.(「セルウィウスの改革」鈴木一州訳、『西洋古代史論集II』財団法人古代学協会編)は複雑なこの組織をそのままセルウィウス王に帰している)にも受け入れられているが、記述にあるような複雑な組織をすでにもっていたかは疑問視される。現代の学者はたいてい市民を三種の財産評価、騎兵級equites、重装歩兵級classici、軽装歩兵級(プロレタリーを含む)infra-classemで分別したと想定している(Richard, op. cit., pp.114-120; Momigliano, “Rise of Plebs”, pp.185-186; 平田隆一「ケントゥリア制の成立について」『教養部紀要』(東北大)33、1981、193-216頁)。モミリアーノは平民とinfra-classsemが対応し、重装歩兵はパトリキのクリエンテスからなったとする。またこの制度にも民会が付随し、別名で軍会exercitus centuriatusとも呼ばれ、この制度が多分に軍事組織だったことを我々に想像させる。

(44) すなわち、コンスクリプティの起源はエトルスキ王政時代である。Momigliano, “Rise of Plebs”, p.185.で王政時代が起源であることをほのめかしている。もしそうなら、彼らが金力貴族であったことを想起すれば、その足がかりとなったのは間違いなくケントゥリア制度であろう。

(45) Liv. 1, 35, 6. 元老院議員数に関して、伝承の百人とか二百人、あるいは三百人と言った数は余り信用されていないが、エトルスキ王政期に元老院議員が増員登録されたという伝えはローマ市の人口増加、経済的発展を考慮して一般に信用される。イェシュタード、前掲書、137-139頁。; 平田隆一「国家権力と宗教」、30-31頁。; Richard, op. cit., pp.114-120. によればタルクィニウス・プリスクス王の改革は、元老院議員の枠を広げ、パトレスを代表した騎兵百人隊を機能的に区別し、パトレスに独占されていた卜占官augresと、おそらく神官団の基本人員を拡大することにまで及び、パトレスのもつ特権の世襲と独占の削減に焦点があてられているという。

(46) Liv. 1, 48, 2. ローマ最後の王、傲慢の名を冠するタルクィニウスによって、一説には籤引きで十人に一人ずつが処刑された。最終的には百三十六名にまで減少したという。共和政の開始のときに百六十四名増やされ、もとの三百名にもどされたという。(Liv. 2, 1, 10.)

(47) Liv.2, 1, 10. プレブスのエリートから選出され、裕福な者は騎士の階級に所属していた。;Festus,
p.304L, s. v. qui patres.(Paulis Diaconusとの往復書簡)プレブスであり、騎士階級に属した者。;Dionysius,
H. 5, 13, 2. 新しい共和政府初年の元老院は平民からなった。しかしクリアに席を許される前にパトリキに認められねばならなかった。

(48) Momigliano, “Rise of the Plebs”, pp. 184-187.; “Origins”, pp. 52-112.

(49) 例えばRichard, op. cit., p.124. コンスクリプティはプレブスに転落し、その指導者的立場を担ったという。

(50) 平田隆一「国家権力と宗教」、26頁によれば、重装歩兵クラスのいわゆるclassiciは平民であるが、Momigliano, “Rise of Plebs”, pp.185-189. ではinfra-classemこそが平民であるという。モミリアーノはまたpopulus
plebesqueという市民を呼びかける文句の語形式を考慮し、平民プレブスが元来populusから除外されていたとし、市民を表す語populusは本来equites(騎兵)と対比され、歩兵を表す語であることから、平民プレブスはローマの公式の軍事組織の外にあったことを示唆している。しかし、ケントゥリア制度での規定はあくまで財産評価であり、当然平民のなかにも重装歩兵クラスの者はいたと考えるべきである。ケントゥリア制導入以前にのみpopulus plebesqueという文句が対置的に語られた可能性を認めることができる。

(51) 平田隆一「国家権力と宗教」、26頁。

(52) 借財のためのネクスス(Liv.,2,23,1など)―身体を抵当にした貸借契約、ネクスム制nexumはすでに前四世紀に(Liv. 8, 28, 1-9.によれば前三二六年のポエテリウス・パピリウス法によって)廃止になっていたので年代記著作家の時代にすでに不明の点が多かったらしい。Nexiは債務奴隷と訳されるが、市民権を保ち、軍務に就いたとの伝承もあり、明らかに単純な奴隷とは異なっている。恐らく一定期間の労働力提供によって借財返済に変えたのであろう。J. -C. Richard(op. cit., p. 125)によれば、先通貨経済の枠組みの中では、生活に最低限の二ユゲラの土地しか持たなかったinfra-classemの人々に借金は深刻な結果を招いた。パトリキからの家畜や種籾等の貸付はfenus unciariumという過酷な法のもとに行われた。毎月借りた分の十二分の一の利息が加算され、つまり年利が元本の二倍という表現で我々に伝わっているそれである。この状況下で彼ら債務者はパトリキのnexiの他に手段がなかったという。

(53) Richard, op. cit., pp.106-110.

(54) Liv. 2, 32-33.; Dionysius, H. 6, 22.など。

(55) Dionysius, H. 6, 22,1.

(56) 市外退去secessioは字義通り「分離」行動である。兵役拒否はまさにローマ市民権放棄ともとれる重大な行動であろう。市民を表す語populusは「歩兵」を意味する。

(57) U. v. Lubtow, Das Romische Volk, Frankfurt, a. M. 1955, S. pp. 55-57.

(58) マイヤー、前掲書、33-35頁。

(59) Liv. 3, 30, 7. によれば護民官が最初に設立されてから三十六年後の前四五七年、護民官が十名になったとするが、この法は疑わしいとされる。リヴィウスは前四九〇、四八九年を欠落させており、三十六年という計算があうのはおかしいし、またセルウィウス制度に立脚して選出した、というのもトリブス民会で選挙したという伝え(Liv. 2, 56, 2.)との矛盾がある。しかし、前四四九年には十名の護民官名が諸伝承に伝わっており、少なくともこのときには十名になったと推察されている。

(60) マイヤー、前掲書、36頁。

(61) Liv.2.33.1.

(62) マイヤー、前掲書、36頁。

(63) 日本語で警士とも訳される、コンスルなどの上級公職者に付き従う従者。元来は王政時代に王の従者として付き従っていたものを共和政期にコンスルが引き継いだため、リクトールは王の象徴たる斧と棒の束(ファスケース)を携えていた。

(64) Gellius, Noctes Atticae 13,12,5-9.「…なぜなら護民官は古い時代においては、裁判をしたり、告訴をしたり、当事者欠席の場合に出訴するために選出されたのではなく、不正が彼らの眼前でなされるのを防ぐという緊急の必要があるときに、拒否権を行使するために選出されたからである」。

(65) マイヤー、前掲書、14頁。マイヤーの伝承の詳細な紹介によれば、ポーメリウムは、特別の儀式によって宗教的に聖別された境界線を示し、カピトリウムを除く町全体を囲み、市域と市外を分けたものである。ポーメリウムの囲む都市の規模は後世のローマにくらべればまだまだ遥かに小さく、カピトリウムのほかに南のアウェンティーヌスの丘をも包み込んだいわゆるセルウィウスの城壁よりも小さい。

(66) Richard, op. cit., p.128.

(67) マイヤー、前掲書、95-98頁。

(68) Liv. 3, 55, 7. 護民官の一身を損なう市民は、彼自身の身体、財産を神々のものとされ、したがって彼は市民団の外に追われ、彼を殺しても罪にならなかったという。

(69) F. Altheim, Lex Sacrata : Die Anfange der plebeischen Organisation, Albae Vigiliae
1, Amsterdam, 1940.

(70) マイヤー、前掲書、34-35頁。マイヤーやリシァル、平田隆一氏は基本的にこのアルトハイムの学説を採用している。

(71) マイヤー、前掲書、33-34頁、Richard, op. cit., pp.124-128.など。

(72) Richard, op. cit., pp.124-125.

(73) イエシュタード、前掲書、174-175頁。

(74) 前五〇九年ユピテル、四九七年サトゥルヌス、四九五年メルクリウス、四九三年ケレス、四八四年カストルの神殿。Momigliano, “Rise of Plebs”, p.189によれば、これは共和政初期の宗教的な必要性から生じたとし、またローマに移住した職人集団が拡大したことも示しているという。

(75) 平田隆一「国家権力と宗教」36-39頁。

(76) J. Bayet, Tite-Live, traduct(G. Bude). Notes des tomes Ⅲ et Ⅳ, 1942-46.

(77) Liv. 2,56-58.; Dionysius, H. 9,41-49. 以前は(パトリキの支配的な)クリア民会で選出していたというが、護民官が平民の擁護者であるという我々の認識とはおおいに矛盾が生じるため、一般にこの伝えは信用されない。私見ではクリア民会で選出された護民官は、様々な平民指導者の一形態と考えるべきであり、上のような考えでは伝承を否定しえない。

(78) 成立事情は不明。伝承ではLiv. 2,56-58.; Dionysius, H. 9,41-49.の記事が初出。トリブス制度に付随する民会。トリブス制度は前四九五年に制定されたとされ、あるいはセルウィウス王を創案者とする。ローマを四つの都市トリブス、一七の郊外トリブスとに分ける制度で、民会はトリブスごとに票を投じたため、後にローマの拡大とともにトリブスが増やされる際にも常にその総数は奇数であった。初期の郊外トリブスのうち少なくとも半数はパトリキ系氏族の名が付けられている。

(79) Liv. 2, 54, 9.「…彼ら(護民官)は同僚の死によって、神聖不可侵の掟がなんの助けにもならないことを思い知らされた」。

(80) Liv. 2, 55, 1-2.「…平民は両コンスルの(徴兵の)命令よりもむしろ護民官たちの無為無策に憤慨する」。

(81) W. Weissenborn-H. J. Muller, Titi Livi ab vrbe condita libri,(Zurich-Berlin, 1969),
ad tit. II 55, 2.

(82) 平田隆一「国家権力と宗教」45-54頁。

(83) ローマにおいて発掘されるギリシア陶器はエトルリアを経由して輸入されていることがわかり、この時期を境にギリシア陶器が発掘されなくなる(イェシュタード、前掲書、215頁)。しかし、私見だがキュメー沖海戦の敗北後わずか一年でローマに債務奴隷を多発させる貧困を想定するのは早すぎるように思える。

(84) 砂田徹(「ローマ共和政初期のトリブスの内部構造―「身分闘争」との関連で」『北大史学』35、1995年、1-22頁(11頁))によれば、リヴィウスの伝承(2, 56, 2-3)のトリブス民会を平民会であったとする。

(85) それと対応してトリブス民会はcomitia populi tributaと呼ばれた。

(86) マイヤー、前掲書、154-155頁。

(87) 十二表法第9表第2条。Cicero, De legg., III 4, 11. Comitiatus maximus(最大の民会)とされ…。

(88) 平田隆一「国家権力と宗教」、48頁。

(89) M. Sordi, Il mito troiano e l’eredita etrusca di Roma, 1989, Milano, p.54.

(90) 平田隆一「国家権力と宗教」、48-50頁。

(91) Liv. 3, 30, 5-7.; Dionysius, H. 10, 30, 2.

(92) 例えばマイヤー、前掲書、57頁。

(93) Liv. 3, 33, 1.; Dionysius, H. 10, 56 seq.

(94) 公職者が市民に対して死刑などの最高刑を科しても、その市民がプロウォカティオを表明すれば、公職者の一存では刑を執行することができず、その判断は法廷や民会に移された。この権利は共和政初年の前509年のLex Valeria de provocationeに見られるが、その存在は疑われる(マイヤー、前掲書、51頁)。しかし、市民に対して救援を「求め叫ぶ」pro-vocare慣行は王政期に由来している(Liv. 1, 26, 6.)と考えられ、市民のプロウォカティオの権利が共和政期の早くから法的に承認された可能性も否定できない。

(95) 前450年代にウォルスキー人が、エトルリアとカンパーニア地方を結ぶ最後の拠点アンティウムを占領したとき、エトルスキ人の支配はエトルリア地方だけに限られるまでに零落したという(イェシュタード、前掲書、216頁)。このとき、ローマはエトルリア経済圏から孤立してしまったと考えられる。

(96) Liv. 3, 31, 1., 3, 32, 2.

(97) ローマの七つの丘に数えられるアウェンティーヌスの丘は、しかしポーメリウムの外にあり、すなわち市外であった。

(98) Liv. 3,52,3.; Cicero, de republica, 2, 37., 2, 63.

(99) Liv. 3, 31, 1.; Dionysius, H. 10, 31. De Aventino publicando … lex.あるいはLex Ichilia
de Aventino.

(100) Liv. 3, 50, 13.「平民に行き会うたびに、自由を回復しよう、平民トリブーヌス(護民官)を任じようと、各人口ぐちに檄を飛ばす。…」

(101) マイヤーは、この重複を不自然だとして、護民官の救援では足りない場合にプロウォカティオが行使されたと想像している(前掲書、51頁)。しかし、これは護民官の設立の経緯によって説明できる。つまり、護民官職はプロウォカティオ権が認められていなかった時期につくられたという理由からである。

(102) Liv. 3, 55, 5; ne quis ullum magistrarum sine provocatione crearet.(何人たりとプロウォカティオに服さない公職者を任命しないこと。)

(103) Liv. 3, 55, 3; ut, quod tributim plebes iussisset, populum teneret. (トリブス平民会の議決は市民を拘束する。)

(104) Liv. 3, 55, 7; ut, qui tribunis plebis, aedilibus, iudicibus decemviris nocuisset,
eius caput Jovi sacrum esset… (護民官、アエディリス、十人委員裁判官を侵害したものの頭はユピテルに捧げられる。)

(105) ブライケン、前掲書、93頁。

(106) 山本茂・藤縄謙三・早川良弥・野口洋二・鈴木利章編、『西洋の歴史(古代・中世編)』、ミネルヴァ書房、1995年、167-169頁。

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