犬島銅製錬所跡

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2011.08.12

瀬戸内を旅した。抜けるような青空。空と同じ色の海面。日差しの焦がした肌を波の飛沫が濡らす。空にせよ海にせよ、両者の境界を時折横切っている島々の緑にせよ、恐ろしく単純な色彩が刹那の感を漂わせてかえって切なくさせる夏の一日。対岸の港から犬島へ行くか、西へ回って直島へ行くか迷っていたら、みな犬島に行きたいといった。犬島に本物があることはわかりきっていたから、よい結果である。むろん直島も有数の場所である。だが、いま若者の勉強になるのは犬島である。日本人の経験した歴史的大災害のひとつに数えられる大津波と未曾有の原発事故、数十年前には原爆が落ち、戦争が終結をみせたこの時期に、孤島に浮かぶ本物の廃墟に目をくぐらせることはけっして無駄にはならない。

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犬島の銅製錬所が稼働していたのは1909年から1919年までのわずか十年。銅の価格下落により採算のとれなくなった施設は打ち捨てられ、今日に至るまで、廃墟としておのれを磨き、飾りつづけてきた。島外の人間が再発見したとき、それは完成途上の芸術品になっていた。

むろん、これを芸術品と呼ぶことを躊躇うのは自然な態度である。あらゆる廃墟がそうであるように、この廃墟に特定の作者はいない。しいていえば、この廃墟の作者は歴史であって、人間は歴史という媒介を通じてしか、この廃墟の建造に手を貸す術をもたなかった。しかし、これを芸術と見ない態度は、芸術に対して偏狭な態度とはいえまいか。そもそもわれわれは、いつも自然を歴史に変えることで、作品を作りつづけていたのではなかったか。この廃墟はもはや本来の用途では価値をもたない。もっているのは、あらゆる芸術がそうであるように、ひとの感覚を楽しませることだけである。海からの風にまじって鉄、ガラス、銅の粉の舞う廃墟の横で百年にわたり生活してきたひとびとの生があるかぎり、そのすべての生を作者とする協同の芸術と考えることに、躊躇のあるはずもない。

実際にわたしを感動させたのは、島の三分の一ほどを埋めるこの廃墟の横で百年にわたってひとが生活してきたということである。打ち捨てられたのではなかった。むしろひとはこの廃墟に寄り添って生きてきたのである。廃墟には草や木が生い茂り、みるひとをどきりとさせる百合の花がところどころで美しく咲き誇っている。いまも実際にひとが住んでいる住居、住居から顔を出す猫やひとの姿は、この百合に似ていた。百合の美しさに芸術を覚えるのであれば、この廃墟もまた芸術品でなくてなんであろう。《人工物のレディメイド》を芸術と取り違える昨今の芸術観念の貧しさを思えば、《本物の人工物》であるほかないこの廃墟のほうが、よほど芸術としての資格を満たしているというものだ。

この自然と歴史の芸術作品のあいまに、《近代概念の解体》と《近代芸術概念の解体》を重ねる思わせぶりなオブジェが配されている。否定はしないが疑問はある。そうしたわかりやすい大文字の歴史性は、芸術とは無関係な政治趣味の結晶ではないのか。むしろこの廃墟と島民の百年の生活にこそ、本当の意味での近代の歴史性があるように思えてならない。

思えば、百年にわたるこの島の歴史を封じ込めたアーカイヴであるこの廃墟は、しかしおのれを自然に侵食されるがままにすることによってこそ、アーカイヴである。芸術作品は現実の時空間に置かれ、歴史による侵食を積極的に受け容れることによってはじめて、宗教的ではない真の芸術として脱皮を遂げる。百年の歴史を重ね、廃墟となってなお、おのれの芸術を主張できる、しなやかでしたたかな芸術作品を見たいという思いはますます強くなる。というかむしろ、人間の作った人工物が、自然のなかに参与するときにはじめて、それは本物となる。自然に参与するとは、歴史のなかに置かれて、侵食を受け容れるということである。自然が長いときをかけて作り上げた《もの》の美しさは、人間にはなかなかまねのできるものではない。老人が頬に作り上げた皺に似た石材のまだら模様の手触りを人工物が実現できるのは、稀なことだ。しかし、この侵食の長い年月に耐えられるものは、次第に芸術品としての資格を有していく。おそらく芸術家は、この時間を一つの作品のなかに圧縮し結晶化しようとしているのだろう。歴史を拒絶するのではない。歴史の流れを早回しにして、刹那に永劫を思わせるほどの時間を注ぎ込むのだろう。

歴史の陰影を拒絶したところに光もない。陰影を欠いたのっぺりしたレディメイドの作品は、時間と日差しを凍結する写真のなかでしか生をまっとうできない。実際に目に触れたときの貧しさは覆いようもなく、実物よりもパンフレットの写真に空想を繰り広げていたときが懐かしくなる。白痴化したレイヤーをいくら重ねようと、厚みは存在せず、その厚みのない白痴性のなかで芸術そのものを堕落させる。おのれの堕落と芸術の堕落との区別がつかなくなり、芸術は堕落したものというとんでもない誤解が世の中を覆う。際限のない堕落のなかで歴史を拒絶し、地理を拒絶し、陰影を拒絶する。現在を永劫のうちに凍結しようとする現代アートの引きこもり体質は救いようがないほど深刻化している。過去もなく未来もない。ただ厳格に現在のうちに封じられる人間。アウグスティヌス主義のリバイバルを見ている気分にさせられる。

百年の歴史の孤独を作品のなかに込められるか否か。犬島の廃墟は美をまとうに百年かかった。ひとひとりの生はこの時間に耐えられない。だとすれば、芸術家は歴史のなかで掘り起こされるのを待っている隠された背面に頼ることなく、表面のうちにも高さや深さを見いだす歴史家たらねばならない。廃墟に寄り添う百年を超えるひとびとの生と同じ強さを表現することがなければ、芸術は緩慢な消滅を受け容れることができない。毒々しい不気味な廃墟が、にもかかわらず芸術としての強度をもっているということは、今日にあって、人間の希望のひとつに数えてよいものだ。ひとびとの記憶は、緩慢な崩壊をもたらす時間の侵食のなかで、たえず作り直されている。急激な破壊を憎むのと同じ強さで、わたしは破壊の拒絶、すなわち時間の否定を憎んでいる。緩慢な破壊のなかに煌めくひとびとの生の営みが歴史を形作っているということを、この廃墟は、廃墟としての生のつづくかぎり、われわれに教えつづけてくれるにちがいない。

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