残暑と戦後社会

diary
2014.08.19

右や左の議論と完全に手を切ったのは、二十代最後の年だったと思う。ほんとうにどうでもよくなった。しかし、世間の問題は、出来事そのもの、歴史そのものとはほとんど無関係に、むしろそれについての左右両陣営の意見をもとに構成されてゆく(その意味で、実証主義者たちには気の毒だが、歴史の構成主義はおそらく不滅である)。それらは過去の歴史とは、なんの関係もない。ただ、きわめて今日的な、現代史的問題であることはたしかである。出来事に対してどう考えるか、どう見るのか、あるいは見せるのか。マスメディアの問題がきわめて重大であることは論を俟たない。歴史はレトリックの問題に回収される。

しかしいずれにしても、戦前の反復など起こりえない。あるとしたら、マルクスのいうとおり「笑劇として」、であるほかないだろう。

わたしは戦争を知らない。まったく経験がない。おそらく今後もそう……願いたい。すくなくとも戦場にでることはないだろう、そういう年齢に達してしまった。だが、逆にだからこそ、自分のなかに、想像を絶する経験をしたひとびと、これからするかもしれないひとびとへの畏敬がある。そしてそんな彼ら自身にとって、当のおのれの行為自体、想像を絶するものだったということも、つよく信じている。つまり、想像を絶するという点において、過去の彼らも未来の彼らも、現在のわたしとなんら変わらず、過去の歴史も、そして若者たちの未来も、わたしにとってそうは遠くない存在であって、奇妙に共感できるということも、なんとはなしに感じている。それは、誰もが、自分の死を知りえないことと、よく似ている。

戦前の反復、それは起こりえない。過酷な戦場で、それでも生き残り、あるいは果無く散っていった過去の人間の美しさ、戦争を遂行するかもしれない未来の若者たちの美しさの一部でも、現代人はもっているだろうか。あるとしたら突発的なそれがあるだけで、歴史的にはほとんど無意味な醜いものであることが確実である。《想像を絶する世界についての共感》、現代社会に欠けてしまったものが、わたしは恋しい。

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