死と隔たりについて

philosophy
2006.01.09

死んで会えなくなることと、遠く離れていて会えないこととは、同じであるように思える。

……こんなことを言うと、死をあまりに軽視していると思われるかもしれない。たしかに、身体的な死は重要である。なぜなら、もう会うことはできない、という論理めいたものをひとに与えるからだ。だが、わたしは、論理学を疑う。そうした論理は、たんにひとつの論理でしかないのであって、アリストテレスがいうように、修辞学的な比喩や雰囲気だってとても重要なのだ。だから、わたしは思う、遠く離れていることと、死は同じなのだ、と。少なくとも、死者に対して、まるで生きているかのような比喩を用いることは、生前に死んでいるかのような比喩を使うことが可能であるのと同じく可能だし、また、死によって、周囲の雰囲気が変わったとはとうてい思えない。ひとつの死は、世界をなにひとつ変えはしない。

死者に対する呼びかけと、今この場にいない者に対する呼びかけと、いったい何が違うというのか。呼びかけに対して返事が返ってこないのは、それは悲しいことだが、しかし、そのことは、べつに、死者と、遠く隔たっているひとのあいだで変わりがあるというわけではない。留守番している子供はひとりで母親の名を呼んで悲しむだろう。年老いた父は、さらに年老い死んだ老父の名を呼んで嘆き悲しむだろう。悲しみにはいくばくかの真実とつながっている可能性があるとしても、悲しみそのものは、真実というにはあまりにかわいらしい、ちっぽけなものだ。そして、子の悲しみも、父の悲しみも、同じだけの価値をもっている。やはり、呼びかけも、両者を分かちはしない。

だが、違う、と誰かが言う。そうかもしれない、たしかに違う。だが、いったい、なにが違うのか?

それはもちろん、生である。生が、たんなる距離の隔たりと、死とを区別するのである。前者は生で、後者は死だ。両者が違うのは、当たり前ではないか。ここでいう生は、別に身体的な意味ではない。むしろ、《可能性》の意味だ。生きているかぎり、また会える、という可能性が与えられるのだし、また、死ねば、もう会えないという不可能性が与えられる。この可能性の違いは、大きいのではないだろうか?

なるほど、たしかにそうだ。だが、はじめから、生が、死に向かう、一連のシリーズでしかないということを考え合わせた場合、どうなるだろうか。生と死が不可分なものであることは、三歳の赤子でも知っていることだ。つまり、生あるものは、死ぬ。生あるものは、つねに、死に向かって突き進んでいる。それが自然なのだ。だから、上記の《可能性》の違いを与えているのは、生ではないし、また死でもない。身体的な生死が一連のシリーズなのだとすれば、その答えを生死の差異に依存するわけにはいかなくなる。むしろ、生と死をひとがどのように分割しているのか、その認識の方が問題であるように、わたしには思える。

もし、ひとが《距離》の隔たりよりも、死の方を重大視するのであれば、それは、《時間》の隔たりが問題視されているのではないだろうか。というのも、万人にいずれ死が訪れるのだとすれば、生死を分かつのは、けっきょく、《時間》にしかないからだ。先に死ぬか、後から死ぬか、それが問題なのだ。先と後、この隔たりは、《距離》の隔たりよりも重大だと、ひとは考えているのだ。したがって、ここには、《距離》よりも、《時間》の方が重大である、というひとつの思想が存在している。人間にとって、少なくとも、近代の人間にとって、なにより重大で、困難なのは、《時間》なのである。

かつて、日本人にとって、インド(天竺)は、文字通り天国であった。つまり、死者の国であった。あまりに遠く隔たっているために、インドに仮に人がいるとすれば、それはほとんど仏か神のようなものに違いなく、ひとは死ねばインドに行くと、ほんとうに考えられていたのである。生前に行けるとすれば、せいぜい中国までであって、それでも、中国に到達して帰ってきたものがみな僧であったように、死を扱うことの許された、選ばれたひとたちだけが行けたのである。彼らは、仏、すなわち死と交わったものとして、迎えられたのだ。それほど、《距離》の隔たりも、また、重要だったのである。

むしろ、循環して再開=再会できる《時間》と異なり、《距離》は、無限の隔たりを、すなわち絶対的な隔たりを想定させる点で、今日とは逆に、前近代のひとびとにとって、重大で困難きわまる問題だったのである。死とは、《時間》というより《距離》の問題だったのだ。だから、前近代人は、むしろ距離についての詩を書いて思いを馳せたのだし、ヘロドトスのそれが典型であるように、歴史はもっと地理的で、より博物学的な問題だったのだ。

近代に入り、それは逆転した。死は、《距離》ではなく、《時間》に結び付けられるようになった。死者は、インドにいるのではない。インドにいた死者は、今では過去にいるのだ。近代人は、プルーストのそれが典型であるように、時間についての物語をつむぎ、歴史は、グローバルであると同時にナショナルな、より時間的な問題になった。その画期は、おそらく、地球が文字通り、球体であるとほんとうに信じられるようになったときだ。空間はかつての時間がそうであったように、ひとつの円環として表現されるようになった。かつての、《向こう側》を想起させる宇宙像とは異なり、今日の宇宙像には《向こう側》などありはしない。宇宙は、伸縮をくりかえす、一種の円環なのだ。そして、かえって《時間》の方が円環から解放され、ひとつの線によって表現されるようになった。《向こう側》と隣り合わせなのは、《時間》なのだ。

したがって、すべての科学技術は、すなわち、人間のすべての知性は、《時間》の克服に向けられるようになった。輸送の技術は、ふつうに考えられているのと違い、空間を圧縮しているのではない。余分な時間を生み出すために、したがって、過ぎ去る時間を考慮しないですむようにするために費やされているのだ。なぜなら、今日の人間は、一分一秒節約するために、二、三歩余分に歩くことを厭わないからである。一分でも早く、一秒でも早く、それが科学技術の標語なのだ。また、あらゆる保存の技術は、過去や未来を遠ざけ、現在(いまここ)を永続させるために費やされている。デジタル化された記録ならば、未来永劫残り続けると、ひとは本当に信じているのだ。また、近代国家の欲望は、空間の制覇にあるのではない。むしろ、時間の制覇に向けられている。アメリカやソヴィエトの宇宙進出の欲望は、より相手に先んじることが目的だったのであって、空間を占めることには向けられていない。その証拠に、自身が先頭を走っていることが保証されれば、途端に宇宙進出の欲望は消滅してしまったではないか。その意味で言えば、近代の帝国主義と古代の帝国を決定的に分かつのは、その欲望が、空間ではなく時間の制覇に向けられていることなのである。その点で、多くの帝国主義論は過ちを犯した。ルクセンブルク以外、批判の照準を空間に向けてしまっている。だから、その対抗軸を、空間的な意味でのネーション(無意味な規定だ)に置かざるをえなかったのである。

かくして、かつての学問的領野を象徴していた博物学は、衰退してほぼ完全に消滅し、いまや学問は、すべて歴史に結び付けられ、数学は、数学史の趣をもつようになった。歴史が、じつは過去ではなく、現在にあることを知っている者は、歴史が、じつはすべての過去を現在にするために存在していることを即座に理解するだろう。この《歴史》という概念は、近代を象徴するすべての知性が生み出した妄執の産物であり、また、近代の鬼子なのである。意識下においてふつうに思われているのとは逆に、時間のことを極力遠ざけ、《向こう側》を考えなくてもすむようにするための思考が、歴史である。だがその一方で、無意識下ではふつうに考えられているように、歴史は、《向こう側》にある時間の重要性を逆説的に認識させてくれる思考なのである。

近代において、生と死とを分かつ分水嶺は、たしかに《時間》にある。だが、これは、しょせんはひとつの思想にすぎない。この思想にはじまりがあったように、また終わりがある。正確を期して言えば、この思想の昂揚があったように、また衰退もある。そして、この思想の影響下にあるかぎり、この思想の衰退にきづかず、いたずらに生を浪費することになる。もし、近い将来、新しい何かが起こるとすれば、それは、《時間》の内部には収まってはいないだろう。むしろ、《時間》の概念そのものをゆさぶり、そしてさらには突き破るものであるはずだし、また、そうでなくてはならない。

だから、わたしは思う。今日、真に考える、ということは、この《時間=歴史=死》の臨界に立つことであると。《時間=歴史=死》を批判(1)することにしか自由は存在せず、また未来も存在しない。《時間=歴史=死》の中にとどまっているかぎり、自由も未来も存在しない。だからわたしは、あえていう。死と、遠く離れていることとは同じである、と。それは、死を軽視するからではなく、遠く離れていることも、死と同じくらいに重大だからそう言うのである。また、死だけを特別扱いすることがないように、そう言うのである。生は、われわれが思っているよりは死に近く、また、生は、われわれが思っている以上にわれわれから遠いのだ。《時間=歴史=死》と《距離=地理=死》のはざまは、一体、何をわれわれに見せるだろうか?

【註】

  • (1) この批判を最初に開始したのは、カントを受け継ぎ、そしてそこからも逸脱したニーチェである。100年以上前に、ニーチェが発狂したのも無理はない。その時代、彼以外に、誰一人、そうした批判を行ったひとはいなかったのだから。だが、われわれには、ニーチェがいて、ベンヤミンがいて、そしてフーコーやドゥルーズがいる。だから気が狂うこともない。彼らはわれわれを勇気付けてくれている。

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